八章 六畳の部屋
覚えている限りほとんど毎晩魘されてきた悪夢だが、その内容がこの頃違っていた。
私はどこかの部屋にいた。六畳ほどだろうか。そこまで狭いわけではないが、息苦しいほど窮屈に感じるのは、足の踏み場がないほど物が乱雑に置かれているからだ。
机に積み上げられた絵画の画集に、本棚から溢れている何十冊もの小説。床には何かのスケッチやら、印刷したイラストやら、音楽のレコードやらがびっしりと敷かれている。
一歩歩けば何かを倒してしまいそうな、そんな部屋に少女はいた。
無理やり作ったであろう小さなスペースに、体を折るようにして座っている。膝の上に置いているのは、メディアプレイヤーだろうか。耳にイヤホンを差し込み、一秒たりとも見逃さないといったように映像を凝視している。窮屈な姿勢のはずなのに、少女はぴくりとも動かなかった。
私は部屋のドアの近くにいて、少女はドアを背にして座っているから顔なんて見えるはずはないのに、少女が目を見開いて、感情というものを無くしたような表情でいるのが分かった。
覚えがあるのだ。私も何かに熱中したことがあるような気がする。全く関わったことのない、名前も知らない人が作り上げた作品に感嘆し、その技術や表現方法の全てを取り入れようと無我夢中だった。
鮮明な記憶ではない。そういう気がするというだけだ。それでも、少女がどんなに真剣に映像を見ているのか、どんな勢いで様々なものを吸収しているかは容易に想像できた。
この部屋、この少女。見覚えがある気がする。この部屋に来たことも、この少女に会ったことも今までないはずなのに、ずっと昔から知っているような。いや、知っているだけでない。私はこの部屋を、少女を、愛おしんでいる。
顔が見たい。自分が求めているものを一途に追い続ける人だけが持つ独特のエネルギーを今まさに発している、この部屋の住人と話をしてみたい。
衝動のまま一歩踏み出そうとしたとき、私は急に開いたドアに突き飛ばされた。たたらを踏み、豪快に本棚を倒してしまう。それに気を取られていると、怒号と共に誰かが入ってきた。
転んだ体勢を立て直して、顔を上げて、はっとする。
同じ人だ。今までの悪夢で、私が横たわるベッドの傍で俯いていた「誰か」だった。忘れてはいけないことは分かっているのに、決して思い出せない「誰か」。顔の輪郭は分かるが、一つ一つのパーツはぼんやりとしている所まで、あの悪夢と共通している。
「誰か」の登場によって、一気に少女に親近感が湧いた。
この少女は、「誰か」と親しいのだろうか。親しいとしたら、どんな関係なのだろうか。
「誰か」は何かを口早に叫んでいた。声を聞くのは初めてで、私は耳を澄ますが、言葉の意味を理解することはできない。異国の言葉のようで、聞こえた音を言語として認識することができなかった。
もう少し近くにいけば、分かるだろうか。せめて顔を見ることができれば。静かに立ち上がり、そっと近づこうとして、私は床に落ちているあるイラストに気がつく。というより、自然と目が吸い寄せられていった。
そこにはシャム双生児のイラストがあった。鉛筆で描かれているから薄いが、フリルのついたワンピースを着ているシャム双生児が、顔を寄せて笑っているのが分かる。今にも動き出しそうなほど生き生きとしたイラストは、私の身近な人によく似ていた。
いや、似ているどころではない。そのままだ。あの少女たちをモデルにしたのでは、と思うくらいそっくりに描かれている。
紙に描かれていたのは、妹のリーンとリースだった。
思わずしゃがみこんで、まじまじと眺める。見れば見るほどリーンとリースにしか見えなかった。思わぬ場所で家族の姿を見つけて、何だかほっとした反面、いぶかしむような不思議な気持ちになる。
これを描いたのは少女なのだろうか。だとしたら、彼女はリーンとリースのことを知っているのだろうか。
実は双子のイラストの下に、もう一枚紙があることに私は気づいていた。もう何となく流れは読めていて、それでもすぐに見なかったのは少し恐ろしかったからだ。
私の想像通りのイラストが描かれていたとして。そうすると私は少女を詰問してしまうだろう。
なぜ姿を知っているのか。会ったことがあるのか、会ったとすれば、いつ、どこで会ったのか。
屋敷の敷地から一度も出たことがない私たちのことを、この見ず知らずの少女が知っているわけはないのだから。
そこまで考えて、私はこれが悪夢であることを思い出す。一瞬でも本気で焦った自分の馬鹿さ加減に、声を出して笑ってしまいそうになった。
夢なら、現実ではありえないことが起こっても不思議ではない。夢とはそういうものなのだから。
心も体も軽くなって、恐ろしいことは何もなくなって、私は好奇心のままに下にあった紙を引っ張り出す。
思った通り、私の美しい姉が細かいところまで丁寧に描かれていた。
写真と見紛うほどクオリティの高い絵に、溜息が漏れる。技術もさることながら、少女が心の底から楽しんで描いていることが作品に余裕の空白を生み出していた。
少女のこの才能に、「誰か」は気づいているのだろうか。こんな狭い部屋で燻ぶらせるには、余りにももったいないこの才能に……。
「逃げ続けるのもいい加減にしなさい!」
突然、「誰か」の声が意味のある言葉として耳に飛び込んできた。
思わず尻もちをついてしまった私には目もくれず、「誰か」は少女へ近づいていく。積みあがった本を倒しても、レコードを割っても、画集を踏みつけても、「誰か」は気に留めようとしない。それどころか「誰か」の声の迫力はどんどん増していって、ついぞ聞いたことのない凄みを持つ声に、私は体を小さくする。
頭の上から怒鳴られた少女はのろのろと顔を上げ、ようやく部屋の破壊者に気づいた。自分がこつこつと集めてきたものが、築き上げてきたものが、もはや原形を留めていないことを理解した。
少女が悲鳴を上げる。聞いている私のほうが胸を裂かれるような、悲しみに満ちた叫びに部屋の床は崩れていく。
彼女の楽園が粉々に壊れていく。
「誰か」と少女を部屋に残したまま、私は床の裂け目に呑み込まれて落ちていく。
そこで悪夢は終わった。




