六章 月光の部屋
それぞれのプライベートルームは、表階段を上がった二階に並んでいる。私の部屋の向かいが双子の部屋、カミーユの部屋は一番奥まったところだ。
私が彼女の部屋のドアを叩いたときには、無機質な月光が彼女の部屋を淡く照らしていた。青白い肌を浮かび上がらせた美しい姉は、ドレッサーの前で私を待っていた。
ほとんど同じ造り、同じ家具のはずなのに、カミーユの部屋はセンス良く整えられている。天蓋付きのベッドも、重厚な衣裳箪笥も、レースのカーテンも、あるべきところに置かれている。
完璧な部屋に、花を纏った乙女が置物のように立っていた。
部屋は静かだった。時折聞こえる音は二人の衣擦れと呼吸音くらいだ。その他は何も聞こえない。屋敷の時間が止まってしまったかのように、私と彼女の二人だけがこの世界の空間に存在している。
女王に忠誠を誓った騎士は、今は私一人なのだ。その事実に私は馬鹿なほど舞い上がってしまう。
女王に認められている。そのときだけ私は心に巣食った、正体の分からないものから解放される。
敬愛する女王の為なら、私はどこまでも進むことができる。
「体調はもう大丈夫なの」
囁くような声だった。顔を上げる。鏡の中のカミーユを見た。
彼女を彩る花は、今限りなく透明に近い白に染まっていた。花びら一枚一枚の血管が鮮やかに浮かび上がり、彼女の肌が透けて見えている。
「体調? 私は元気よ、カミーユお姉さま」
彼女は、丸椅子に座る私の髪を細い指でつまんでいる。
切るほどの長さはないが、そのまま下ろしているには邪魔になる。そんな中途半端な長さの私の髪を、彼女は綺麗な三つ編みに編んだ。紫と白の髪を編み込んだ三つ編みが、耳の上から後頭部を飾っている。
「そう。ならいいのだけれど」
カミーユの指が首筋をくすぐった。彼女の指先はいつ触れても氷のように冷えている。
「でも急にどうして? 顔色でも悪いかしら」
「シオン」
カミーユは華奢な体を曲げ、鏡の中の私と目を合わせた。その瞳にはなんの感情も浮かんでいない。
「覚えていないの」
「……何を?」
「そう」
それ以上彼女は何も言わなかった。再び私の髪をつまみ上げ、細く編み始める。
取り残されているのは私だけだ。
「覚えていないの」? 何を? 彼女が私の体調を気遣うような、心配するようなことがあったのだろうか。
今日は何をしただろう。昼食からアフタヌーン・ティーまでの間、双子と遊んだ。自分だけの美術館に隠れた。カミーユに連れられてダイニングに行って……。
……その後は?
思い出せない。頭に靄がかかっているようで、どれだけ頑張ってもその後の光景を思い浮かべることができない。ダイニングにいたときから、急に時間が飛んでカミーユの部屋に来たかのような妙な感覚に包まれている。
それが私の記憶を曖昧なものにしている。
こういうことはよくあった。私の記憶は決して一続きではない。所々にぽっかりとした空白を挟んでいる。落とし穴のような急な空白は底が見えないほど暗く、深く、覗き込むことができない深淵だ。その空白に消滅してしまった記憶を思い出したことは今まで一度もない。
私は記憶能力に大きな欠陥がある。それに気づいたのはいつだっただろう。
「……カミーユお姉さまはどこまで覚えているの」
「どこまで、とはどういうことかしら。今日一日だけの記憶? それとも今までの人生で得た全ての記憶?」
「全ての、記憶」
曖昧な記憶について考えていると、私はひどく不安になってしまう。
私はおかしいのではないか。もう取り返しがつかないほど壊れているのではないか。いつか私の罪を暴き出す告発者が現れるのではないか。
罪……? 何故、そんな言葉が出てくるのだろう。
「私は貴方とは立場が違う」
鏡に映った私は青白い。不安、疑念、恐怖……負の感情を宿した瞳が落ち着きなく揺れている。カミーユに似た瞳と、双子と似た肌を持つ顔が、悲しく歪んでいた。
背をかがんだカミーユの唇が私の耳に触れた。
「私は全て見てきた。本当に全てを。貴方が目を背けていたものも全て。見てきたものは全て覚えている。だから私はこの世界を誰よりも理解している。貴方よりもね」
「だからといって、貴方が不安になる必要はないのよ」とカミーユは続けた。後ろから覆いかぶさるように、私の首に細い腕をまわす。私に体重をかけているはずなのに、彼女の体は夢のように軽い。
「絶対に覚えていなくてはならないものなんて、この世には存在しない。その逆よ。絶対に覚えていなくてはいけない、自分の存在の根幹を成している記憶ほど、簡単に消えていく。それは消えても自分の存在は揺らがないと、脳が判断したから。消えていい記憶だから、消えてしまうの。それほど私たちの存在は曖昧で、知らないうちに消えてしまうほど儚いのよ。だから貴方は悩まなくていい。世界はそう最初から設計されているのだから。それに」
彼女はドレッサーの引き出しを開けた。そこには蝶の髪飾りがただ一つ置かれている。ガラス細工の髪飾りは、月光を反射して虹色に輝いていた。
「貴方が今考えなくてはいけないのは、儀式のことよ。明日から準備が始まるわ。あれを失敗するわけにはいかないのだから、心血を注がなくてはいけない。貴方は今それだけを意識していればいい」
「……ええ、そうね。カミーユお姉さま」
気がつくと、私は微笑んでいた。今までの、暗闇の中を手探りで進んでいるような感覚は完全に消えたとはいわないまでも、今までとは比べようがないほど軽くなっている。
今、私は儀式のことだけを考えればいい。そんな単純なことに気づいていなかった自分に哀れみすら覚える。
カミーユの言葉は麻薬だ。裸で震えていた心にかけられた毛布の感触は、一度知ってしまうと手放すことができない。それどころかもっと求めてしまう。もっと欲しくなってしまう。求めれば、カミーユは何度でも与えてくれる。何度でも私の身体を抱いてくれる。しまいに私は引き際が分からなくなる。
正気の状態を忘れて、私は彼女に溺れてしまう。




