五章 オリヴィエ
扉が勢いよく開かれる音。それと同時にますます泣き声は耐えられないものとなる。「その子」が私のすぐ後ろにいるのは明白で、一刻も早く離れたくて、私は耳を塞いだまま双子のいる部屋の左へと避難した。
全く同じ動作で立ち上がった双子が私の背を擦る。
「大丈夫ですか、シオンお姉様」
「体調が悪いのですか。一週間後にアレがあるから、早く休んで治した方がよろしくてよ」
「いいえ、リース。シオンお姉さまは耳を塞いでいるわ。きっとオリヴィエの声のせいよ」
「ああ、きっとそうだわ、リーン。オリヴィエの泣き声、シオンお姉様は苦手ですものね」
声どころか、姿すら視界に入れたくないほど苦手だ、と心の中で呟く。いや、苦手なんて生易しいものではない。私はオリヴィエが怖いのだ。まだ一歳にも満たない末っ子が、怖くて怖くてたまらない。
何故なのか、理由は自分でも分からなかった。ただ、不吉だと思う。あの子の存在そのものが、私にとって脅威なのだ。あの子を見ていると、あの子が傍にいると、私の足元は一気に不安定になる。ぐらぐらと脳が揺れ、そのまま何もない暗闇に落ちていく心地がする。
双子やカミーユと違い、あの子のことはどうしても家族と思うことができない。
「オリヴィエ、どうしたの。またお腹が空いたの」
恐る恐る見ると、オリヴィエはカミーユに抱き上げられていた。その体は比較的小柄な双子と比べても、ひどく小さい。それなのに彼女の指先まで漲っているエネルギーは、質量と共に私を圧倒する。
赤ん坊は短い腕と足を振り回し、青白い肌をさらに青くして泣いている。淡い紫のワンピースは汚れ、破られ、カミーユが整えたであろう巻き毛もぐちゃぐちゃになっていた。
口にはべったりと土がこびりついていて、ああ、またお腹が空いて中庭の土を食べていたのだと察する。
まだ喋ることのできないオリヴィエは、常に口に何かを入れていないとひどい癇癪を起こす。ディナーでも、何十皿もの食べ物を薄いお腹に詰め込んでいく。その食べぶりは、見ているこちらが吐き気を覚えるほど凄まじい。
食べ物がなければ、周りにあるものを片っ端から食いちぎっていく。オリヴィエの左手に薬指がないのは、食べ物だと勘違いして食べたからだ。産まれたときから目が潰れているオリヴィエは、最後まで自分の指だと気づかなかったらしい。
「どうしたのかしら。リーン、リース。何か心当たりはない?」
「ありませんわ、カミーユお姉さま。私たち、今日はオリヴィエに会っていなかったもの。ねえ、リース」
「ええ、リーン。何か食べ物をあげれば、落ち着くのではないかしら。オリヴィエが暴れる理由は、いつもそれですもの」
泣き声は止まない。それどころかどんどん高くなっていく。鼓膜を突き破るどころか、もう人間の耳では聴き取れない程甲高い。その不快さは、心臓をやすりで削られているようだ。
オリヴィエは泣く。空気が振動し、周りを巻き込み、一秒ごとに振り幅が大きくなっていく。テーブルにセットされた銀食器が揺れる。ティーポットが高い音を立てて割れる。椅子が勢いよく倒れる。床までも振動しているように感じ、双子も私も立っていられなくなって転がってしまう。
「困ったわね」
オリヴィエを抱いているカミーユだけが、いつまでもそこに立っていた。細い体が僅かに揺らぐこともなく、ぞっとするほどの無表情で泣きじゃくるオリヴィエを見つめている。
そこだけが別の空間で、二人の周辺は晴れた日の湖面のようにただただ静かだ。
こんなときながら、ぴくりともしないカミーユに目を奪われてしまう。博物館に飾られる彫刻のように全くといっていいほど生気が感じられない顔は、神が設計した最高傑作だ。
床に這いつくばりながら、見惚れていたときだった。
潰れているはずのオリヴィエの目が私を見た気がしたのは。
ぶわりと鳥肌が立った。あわてて目を逸らそうとするも、何かの引力が発生しているようにオリヴィエから視線を外すことができない。見られれば見られるほど体は震え、呼吸が浅くなっていく。
原型を留めないほど潰れ、頬の肉と絡みついている両目が私を見ている。あるはずのない黒目の焦点がぴたりと私に合っている。
何故、私を見る。私の何が……いや、見ているのは私ではない。もっと深く薄暗い、私ですら気づいていない、心の端の端に棲みつく何かを……。
……私の罪? 私の心には、どうしても拭うことのできない闇が巣食っている。いくら明るいランプで照らそうとも、いくら救済を願おうとも、消しきれない暗い闇が……。
闇とは異物だ。私の体に異物が入り込んでいる。
目の前がどす黒く染まっていく。意識を手放す直前、足元の床が腐食していくのを見た。




