三十五章 母と娘
心臓が止まったように感じた。
自分自身を見つめながら立ち尽くす私に不意にかけられた声は、私によく似ていた。ひどく懐かしい声だった。生きていたときは、毎日聞いていた声だった。
私はゆっくりと横を見る。
少女が眠るベッドの傍のパイプ椅子に座っている「誰か」は、私を見ていた。
元々一重の目が大きく見開かれていた。目の下に刻まれた隈は、悪夢で見たときよりも濃くなっていた。思っていたより華奢な体は、掴んで力を籠めれば折れてしまいそうなほどに、細かった。
その人は私の本当の家族だった。たった一人で、私を育ててくれた人だった。
私が人生で初めて、本気で憎んだ人だった。
「お母さん……!」
未だにパイプ椅子の上で固まっている女性――母に向かって、私はふらりと足を進めた。涙が次から次へと頬を転がり落ちていた。言葉を発しようとして、息が詰まった。溺れたかのように喘いでいた。
話したいことが数えきれないほどあった。
「美しいもの」が母によって全て捨てられた、あの晩。私が自分の体に火をつけた理由が今分かった。
お母さん。
呼びかけようとするも、言葉が胸に詰まって出てこない。伝えなければ、話さなければと思えば思うほど、涙は溢れ、呼吸は苦しくなる。
私があの日絶望したのは、宝物を全て失ったからではなかった。
私は、貴方が私のことを全く見てくれていなかったことを知った。私のことを全く理解していなかったことを知った。それに絶望したのだ。命を自ら断とうとするほどに。
私は貴方が大好きだった。唯一の家族である貴方を、私は心の底から愛していた。
だからこそ、理解してほしかった。見捨てないでほしかった。もっと私のことを理解してほしかった。
貴方に向かって伸ばす私の手を、取ってほしかった。
中学校でいじめられたとき。高校で不登校になったとき。
唯一の味方だったはずの貴方が私に怒りの牙を向けたとき、私は動揺した。貴方の怒号に耐えられなくて、自分の殻に閉じこもってしまった。貴方に言い返すことすらしなかった。
全てを理解した今なら分かる。自分がどんなに愚かだったか。自分がどんなに醜かったのかを。
貴方に理解してほしいと乞うておきながら、私は貴方に理解してもらうための努力を怠った。分かってくれているはずだという酷い思い込みをして、自分のことを話そうとしなかった。貴方を理解する前に、貴方に理解されることを求めた。
勝手で自己中心的だった私は、挙句の果てには貴方を本気で憎んでしまった。
自分の体に火をつけるなんて、貴方に対しての冒涜なのに、私はそれをしてしまった。
その罰が、この醜く歪んだ姿だ。顔を覆う火傷だ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
私の震える唇から漏れる謝罪の声は、泣いている。今更謝っても何にもならないのに、謝って許される問題ではないのに、私はどうしても謝ってしまう。許しを乞うてしまう。
もう手遅れなのに。
……手遅れ? 手遅れとはどういうことだ。醜い私はこうして現実に帰ってこられて、母にだって……。
病室を一目見たときから、感じていた違和感。何度も悪夢に映し出された光景に、この部屋は何かが欠けている。一体、何が……。
悪夢の中で私は、目覚めてまず、部屋に響く機械音を感じ取った。ベッドの脇で低音を奏でる機械からは何本ものチューブが伸びていて、そのチューブから私の体に黄色い液体が……。
この部屋は静寂に包まれている。チューブは私の体ではなく、機械に巻き付けられている。チューブは半透明で、その中は空っぽだ。あの黄色い液体はどこにも見当たらない。
この機械を、私は生きているときに見たことがあった。映像と構成が美しく、私が非常に気に入った映画の中に、あの機械が登場しなかったか。患者の呼吸が止まったときに、意識不明の重体となったときに、少しでも命を続かせるために着ける……。
あれは生命維持装置ではなかったか。




