三十一章 盲人の意図
言葉の意味を理解した瞬間、血の気が引いた。待って、待ってと譫言のように、誰もいない空間に向かって呟く。
どうして、どうして私は気づかなかったのだ。
ここは夢の中の世界だ。本来の私が生きている元の世界とは違う世界、異世界だ。
元の世界とは異なる世界で行われた儀式で、私はワインと林檎のスイーツを口にしてしまった。
鼻に抜けていったワインの香りが、口が痺れるほど甘い蜂蜜に覆われていた林檎の果実の酸味が、まざまざと蘇ってくる。下腹が鉛でも入れたように急に重くなる。
微かな違和感があった。
……私は全てを食べてしまったか? いや、違う。林檎のスイーツは口に含みこそしたが、すぐに虫と共に吐き出した。林檎はかろうじて食べていない。食べていないはずだ……。
ある少女と少年――アダムとイブは、蛇にそそのかされて禁を破り、知恵の木の実を食べてしまった。
楽園から追放されてでも食べずにはいられなかった果実は、林檎だった……。
私は林檎を食べていない。楽園からは追放されない。
私にとっての楽園とはどこだ。この夢の中の世界か、「誰か」がいる現実の世界か。以前は夢の中に永遠にいることを望んでいた。現実になんて帰りたくなかった。今はどうだ。よく分からない。
他にも食べたものはなかったか。一週間前から儀式が行われる今日まで、私たちは食事を取ることを禁じられていた。誰かに言われたわけではない。そう決まっていたのだ。
この世界は一週間前、双子とのかくれんぼで私が小部屋のソファーの裏に隠れた、あの瞬間から始動した。あのとき、廊下から双子の声が聞こえて、闇から現れたのはアフターヌーン・ティーの準備を終えたカミーユで……。
アフターヌーン・ティー。ダイニングルームで姉は、クロテッドクリームとジャム、蜂蜜を添えたクランベリースコーンと、ダージリンのストレートを準備していた。バスケットに盛られていた林檎の、毒々しいほど真っ赤な色まで思い出される。
あれを私は食べなかったか。ダイニングルームに行って、私は何を……。
双子と話をしていたとき、急にダイニングルームに現れたのはオリヴィエだった。盲人の末っ子の泣き声はあまりにも凄まじくて、床に転がった私はそのまま意識を失った……。
そうだ、私は気絶したのだ。何時間かの眠りから覚めた後、私はカミーユの部屋へ向かった……。
食べていない。カミーユが作ったアフターヌーン・ティーのスイーツを、紅茶を、私は口にしていない。
オリヴィエが来てくれたから。オリヴィエがあの時泣いてくれたから。
彼女があの場にいなかったら、確実に私は食べていた。そして、元の世界に戻れなくなっていた。
彼女は私を助けてくれていた……? 私が一方的に恐れていただけで、もしかして彼女は……。
ああ……でも。
私は思い出してしまう。熱い塊が食道から胃へと流れていく感覚を。自分の中で何かのスイッチが切り替わった音を聞いてしまったことを。
私は儀式でワインを飲んだ。違う世界の食べ物を(異物を……)体の中に入れてしまった。
私はもう元の世界には帰れないのだろうか。
私はどうしたいのだ。現実に帰りたいのか、帰りたくないのか。「誰か」に会いたいのか、会いたくないのか。
迷う。帰らなければいけないことは分かっている。夢の世界に囚われつづけてはいけないことは、分かっている。この世界が永遠に続くことは決してないのだということも、分かっている。
しかし、現実に帰ることを決断できない。再びあの苦しい状況に身を浸す決意をするだけの勇気が、私にはない。
部屋の時計を見る。四時四十分を指していた。
制限時間はあと二十分だ。




