三十章 悪夢の反転
まず私は、シオンなどという英国のお嬢様ではない。こんな屋敷にずっと住んでいるわけでも、四人の姉妹がいるわけでもない。
私の本当の名前はシオンではなく紫苑――花澤紫苑だ。
日本人で、学生で、一人っ子で、母子家庭で。
自分の体に火をつけて、死のうとした。
さっき、秘密の小部屋で脳裏に浮かんだ映像を思い出す。火に囲まれる自分。火の向こうに広がっているのは、私の部屋。部屋は私が集めた「美しいもの」で溢れている……。
あの光景は、私の意識が途切れる直前に見えたものだ。
宝物を全て捨てられてパニックに陥った私は、深夜に台所から油の小瓶をとってきて、自分の体と部屋に油を撒いて火をつけた。
あのときの自分の心情を、正確に描写することはできない。何か大きなものに突き動かされていた。ないはずの「美しいもの」を、火の向こうに幻影として見るくらいには現実を処理できていなかった。
火に包まれた後に私はどうなったのか。答えはずっと私の前にあった。ただ私が気づいていなかっただけだ。
この屋敷で毎晩魘された悪夢。白い部屋で白いベッドに寝た私の体からは、何本ものチューブが伸びている……。
あれは悪夢などではなかった。
あれこそが現実だったのだ。
私は死にきれなかった。命の火が消えかけるあと少しのところで、生き延びてしまった。現実の私は、今病院にいる。意識不明の重症患者として、病室でチューブに繋がれている。
自殺しようとしたのは、そして病院に運ばれたのは、今からちょうど一週間前。その瞬間にこの世界は誕生し、そして私はここの住人として生まれた。
この屋敷に物心ついたときから住んでいるという、存在しない十何年分の記憶と共に。
ここは私の夢の中なのだ。私が作り上げた、私だけの世界。
そして私は現実で生きる代わりに、この世界を意識だけの状態で生きている。当たり前だ。私の本当の肉体は、病室で寝ているのだから。
自殺に失敗して意識不明になった私は、現実で目覚めることを無意識のうちに拒んでいた。再び現実の世界で苦しむことから、火で炙られた醜い顔でこれからの人生を生きることから、逃れようとした。
その無意識の願いが具現化したのが、この世界なのだ。
私は夢の囚人だ。事実に気づかない限り、いつまでも白昼夢の中を彷徨いつづける。
……双子とカミーユは私自身が作り上げた。小部屋でそれを思い出した。
では、オリヴィエは? 生きていたときにあの子を作った覚えなどない。そもそもこの世界が私の望みの具現化ならば、あの子が存在するのはおかしいだろう。
私はあの子を本気で恐れていたのだから。
……ああ、だめだ。もう少しなのに、喉まで出かかった言葉が出てこない。あと一ピース、欠けた一ピースを埋めることができれば、この世界の構造が分かるのに。もう少しで……。
――ペルセポネが冥界で口にした林檎も、きっとこんな風だったのでしょうね。
――何を言っているの、リーン。ペルセポネが食べてしまったのは柘榴でしょう?
不意に鼓膜に蘇った双子の声。覚えがある。これは儀式に使うための林檎を用意していたときの、双子の会話ではなかったか。
なぜ、今になってこの会話が。
ギリシャ神話の女神デメテルの娘ペルセポネは、柘榴を食べたことで冥界から離れられなくなった。自分が住んでいる世界とは異なる世界の食べ物を口にしてしまうと、元の世界には完全に戻れなくなる。ペルセポネは三粒の柘榴の実と引き換えに、一年のうち三か月間を冥界で過ごす義務を受け入れた。
……自分が住んでいる世界とは異なる世界の食べ物を口にしてしまうと、元の世界には完全に戻れなくなる?




