二十九章 真実
最後の映像。
私は空っぽの部屋の前で呆然としていた。
高校から、留年が決定したことを告げられた日だった。他の生徒の授業が終わる夕方に担任から呼び出された私は、昼過ぎに家を出て、慣れていない通学路を通って学校に行った。
初めて会った担任は、大学を卒業したばかりの若い男性だった。一緒に頑張って卒業しよう、と白い歯を見せて笑う担任に、私は最後まで返事を返さなかった。
卒業や進路のことについて考えられるほど、私は心の余裕がなかった。一日一日を生き抜くだけで精いっぱいだったのだ。
たとえそれが、傍目から見れば部屋に籠って遊んでいるようにしか見えなくても。私が私という自我を持ち続けるために、私は必死だった。
私の人生の大部分を占め、私という存在の根幹を成していた「美しいもの」。
美しい文章で綴られた小説、美しい音色が奏でる音楽、美しい色彩で描かれた絵画、美しい映像で構成された映画……見た誰もが美しいと称賛するようなものから、一見美しいとは思えないが思いもよらない感動が隠れているものまで、私は自分が思う「本当に美しいもの」を心から愛していた。
こつこつと収集したそれらと戯れているとき、私は私であると実感した。自分という存在を、何よりも感じ取ることができた。「美しいもの」で溢れている自分の部屋は、私にとって砦であり、隠れ家であり、何物にも代えがたい宝物だったのだ。
それが、家に帰ると全て捨てられていた。
何か月ぶりか外出に疲れ切って、玄関でほとんど倒れていた私に「誰か」は言ったのだ。
――あんなものに現を抜かしているから、前に進めないのだ。学校に行くことができないのだ。現実から目を逸らし続けているのだ。
――だから全てゴミに出した。もうあんなものを集めるのはやめにしなさい。
何を言っているのか分からなかった。ガンガンと頭の中で何かが鳴り響いていた。それが思考回路を鈍らせた。
言葉の意味が理解できなかった。いや、理解することを脳が拒んでいた。
震える声で聞き直した私に、「誰か」は再び同じことを言った。何度も同じことを言わなければいけないことに、苛立っている声だった。
――あれはゴミに出した。もう、いい加減にしなさい。
そうして「誰か」は言ったのだ。
――貴方のためなのだから。
殺してやりたいと思った。
今この瞬間、私の手の中に包丁が握られていたら、ためらうことなく「誰か」の頭に振り下ろしていただろう。それほどまでの激情が私を襲った。それほどまでの存在だったのだ。私にとって、あの絵画は、小説は、音楽は、映画は。
これをやったのが中学のあの女子たちなら、ここまで私も取り乱さなかっただろう。あの人だったからこそ、私と一番関係が近い「誰か」だったからこそ、私は深く絶望したのだ。その行動は、「誰か」が私のことを全く見てくれていないことの証明だったから。
あの人は私のことを全く理解していなかった。
がらんどうの部屋の中で、私はいつまでも泣き続けた。
(あの後、家の近くにあるゴミ置き場を片っ端から見て回ったが、当然宝物が見つかることはなかった。途中から雨が降り出していた。傘をさすことも忘れていた私は、家に帰ったときにはびしょ濡れになっていて、髪や服から雨水がぽたぽたと垂れ続けていた。「誰か」はそんな私をちらりと見て、馬鹿なことをしていないでさっさと寝なさいと、吐き捨てるように言った。あのとき初めて私は、自分以外の人を本気で憎んだ……)
映像は終わった。もう蝶は翅を広げてはいなかった。はらりはらりと舞い落ち、死体として床に積み重なっていく。
私はいやに落ち着いていた。今までのように半狂乱になることも、気絶することもなかった。ただ凪いでいた。過去のことが、自分のことが、この世界のことがようやく分かったというのに、今まであれだけ苦しんだというのに。
いや、逆なのかもしれない。今までの苦悩が大きければ大きいほど、それを乗り越えた瞬間というものは、案外慎ましいものなのかもしれなかった。
全てを思い出していた。




