三章 狂わせる人
広々とした空間にまんべんなく、薄っすらと埃が積もっている。無数の絵画が石造りの壁を埋め尽くし、同じく石造りの床には骨董品が並び、テーブルの上にはドールハウスが展開されている。特に有名な職人が手作りしたという「リコレクションのドールハウス」は、人形を置いたらそのまま生活を始めそうなほど精巧に作られていた。
極東のある国の住宅をモデルにしているらしく、見たことがないはずなのに、どこか懐かしさと温かさがある。
まさしく「小さな美術館」と呼べそうなこの部屋は、表階段の奥にひっそりと隠されるようにして私を待っていた。
絵画や骨董品といった古い芸術には、今までその作品が過ごしてきた時間が宿っている。多くの作品から流れ出した時間はやがて底に溜まり、混ざり合い、新たな調和を生み出していく。
そして、その部屋にしか通用しない時間の流れができる。
この部屋にいると数秒が何時間にも思えるのも、きっとそのせいだろう。呼吸するのさえためらわれる、静謐な空気で満たされている空間にいるのは思いのほか心地よかった。
マントルピースの暖炉も、暖かい日光が差す窓もないから、ほんの少しここにいるだけで骨の髄まで凍えるが、それすらも気にならない。
この部屋を見つけたのは、かくれんぼで隠れる場所を探していたときだった。私がこの遊びを好む理由は、こういうところにある。
私はソファーの影からそろりと頭を出してみた。
「…… そろそろかな」
時間切れだろう。
呟くと同時に、ダイニングルームの振り子が時を知らせる音が空気を震わせた。重厚な低音は、アフタヌーンの時間が来たことを告げている。
どうやら今日も私の勝ちらしい。
何も履いていない足を見下ろすと、冷えきった指が丸まった状態で固まっていた。シルクのワンピースにも皺が寄っている。狭い場所に長い間縮こまっていたからだろう。
軽くワンピースを撫でつけて、背伸びをして、部屋を出ようとして。
背後に誰かの気配がした。
「ひっ…… !」
どくりと心臓が跳ねる。この部屋に私以外の誰かがいるはずがない。隠れるときに部屋の中は一通り見たし、扉が開けられて気づかないはずがない。
あわてて振り返って距離を取ろうとするも、壺や椅子に足が絡まって自由に動けない。
立ち往生している間に、「誰か」は私の髪にするりと指を絡ませた。透き通った声が響く。
「髪、伸びたわね。シオン」
彼女はそのまま指を滑らせ、頬を撫でた。
煩く鳴り響いていた鼓動の音が一気に静かになったのが分かった。「誰か」から発せられた声が聞きなれたものであったことに安堵する。
体から力を抜き、氷のような手にすり寄った。
「カミーユお姉さま」
小さなランプでは消しきれない、部屋の奥に潜む闇。不用意に近づけば魂ごと吸い込まれてしまいそうな、そんな闇から現れたのは長女のカミーユだった。
アフタヌーン・ティーの用意を済ませてきたのだろう。バニラエッセンスの甘い匂いが、彼女の体に纏わりついている。
見上げると、美しい姉は薄く微笑んでいた。陶器のような肌や、顔の右半分を覆う綺麗な三つ編みが闇に映えている。
「今夜、私の部屋にいらっしゃい。髪を整えてあげる。羨ましがるから、あの双子には内緒ね」
感情を極限まで削り取ったような静かな声で紡がれた言葉に、頬がだらしなく緩んだ。
「嬉しい。ありがとう、カミーユお姉さま」
カミーユの淡い紫の瞳に、私が映っている。
満足そうに頷いた彼女は、私に顔を寄せた。恐ろしいほど整った顔が、鼻と鼻が触れそうな距離にある。冷気を纏った吐息が肌をくすぐった。
いつも完璧で美しい乙女。どこか遠い星から来たかのように人間味がない姉のことを、私はいつまでも眺めていられる。
彼女の前にいるときの私は狂人だ。
視界の全てが彼女に占領されている中で。彼女の三つ編みの向こうに、顔の右半分に植えられた花々が見え隠れした。
私が気づいたときには、もうカミーユの顔を彩っていた花々。カミーユの血管に根を張り、血を養分として育つ彼らは、温度や気候によって色を変える。
今は全てが濃い紫に染まっていた。
紫の瞳と花を持つ彼女は、この部屋のどの絵画よりも芸術的だった。




