二十章 盲人
絶叫する。椅子から転がり落ちた。服に纏わりつく芋虫を必死に振り払う。一瞬手に当たり、その変に柔らかい感触に頭がおかしくなりそうだった。
林檎から流れ出た虫が、ぼとぼとと椅子に落ちてくる。床にも落ちてくる。私の方へ這ってくる。全身に鳥肌が立った。泣き叫ぶ。震える腕と足は私の体重を支えてはくれず、それでもこれ以上ここにいることはできなくて、這いつくばりながら扉へと腕を伸ばす。
逃げたい。ここから出たい。
お願いだから逃がして。
やっとの思いで辿りついた扉の前には、何か丸々としたものが置かれていた。何かの置物に見えるが、この部屋には儀式に必要なテーブルとイスしか設置されていないはずだ。
あれは何だろうか。
止まって確認する暇はなかった。床に四つん這いで這いつくばる私の足に、ムカデが近づいてくる。引きずったワンピースの裾に芋虫が絡まっている。テーブルの脚を、毛虫がよじ登っていくのが見えている。
もうこれ以上この部屋に居つづけることなどできない。
腕と足を必死に動かして、腕を伸ばせば届く距離まできたとき。私はようやく扉の前の物体に目を凝らすことができた。
サッカーボールほどの大きさの物体は、よく見ると自らの意志によって動いていた。青白い体を醜く丸めている。薬指のない左手で何かを掴み、一心不乱に何かを食べている。じゃりじゃり、音がしている。潰れた目で、手の中の何かをじっと観察している。
私は扉に片腕を伸ばした姿勢のまま、固まった。物体に目の焦点をぴたりと当てたまま、一ミリたりとも動くことができない。ひくりと顔の筋肉が震えた。
信じられない。彼女がここにいるなんて。いや、違う。私は薄々気づいていたのではなかったか。無意識のうちに。はっきりと自覚していなくても、心のどこかで分かっていたのではないか。
この屋敷から去らなければいけないことは、もう決まった事実だということ。もう残された時間は少ないということ。あの場所へ引き戻されるときには、彼女が現れるだろうということ。
扉の前にいたのは、儀式に参加していないはずのオリヴィエだった。
涙が次から次へと頬を伝っていく。零れ落ちた水滴は、ワンピースを濡らしていく。湿ったワンピースから垂れた水が、カーペットに大きな染みを作っていく。それでも止まらずに、涙は目の奥から湧き続けた。
オリヴィエがここにいるということは、私はもう帰らなければいけない。
じゃりじゃりじゃりじゃり、と。オリヴィエは何かを食べている。その音と呼応するように、私の呼吸は浅く、速くなっていく。息を切らしながら、私は震える唇を開く。
「……もう少しだけでも」
ここにいさせて。
言葉は最後まで出なかった。オリヴィエが食べているものが見えたから。
目を見開く。部屋の時が止まったような気がした。
彼女がさっきからずっと凝視していたのは、ある破片だった。そこに何かが映っている。曖昧なものらしく決して鮮明ではないが、私は一瞬でその映像の正体を理解してしまう。
どこかの部屋が映っていた。壁も床も白い。私はベッドに寝ている。「誰か」がベッドの傍の椅子に座っている。私の体から何本ものチューブが伸びている。私は半狂乱になり、チューブに繋がれた腕を振り回す。赤い液体が床に、天井に、壁に飛び散る。私はどんどん息苦しくなる。どんどん熱くなってくる……。
……まさか、それは。
私の悪夢ではないのか。
呆然としている私を横目に、オリヴィエは紙を丸めるように破片を握りしめ、じゃりじゃりと喰らいつくしていく。まだ十分に発達していない歯で噛み砕き、打ち砕き、隅々まで壊す。ごくりと動く喉が、やけに鮮やかに闇に浮かび上がっている。
私の夢が、食べられていく。
ぶよぶよの指に残った残りかすさえぺろりと舐め上げたオリヴィエは、私を見た。
潰れた目と目が合った。
視界が真っ赤に染まった。
こいつは、こいつは何をした。食べた、私の夢を。私の夢を食べた。あの夢は悪夢だ。違う。あれは悪夢などではない。悪夢ではなかった。あれは私の帰る場所で、戻るべき場所で、「誰か」が私を待っている場所で。あのチューブだって、チューブを流れる黄色い液体だって、私が生きるために必要なもので。「誰か」の恩恵にほかならなくて。
それをこいつは食べた。
こいつのせいで、私は帰る場所を失ったのだ。




