十六章 心の闇
それからは時間があっという間に過ぎた。
儀式の準備で忙しいというのもあったけれど、あの晩の記憶を取り戻したことで理解した事実について、ずっと考えていたのだ。
私は夢遊病ではなかった。私はあの晩に自分の意志で中庭を散歩して、自分の意志でオリヴィエから逃げ出し、獣に姿を変えた。
その上で、全てを忘れていたのだ。記憶の所々にぽっかりと空いた空白は、私が自ら作り上げたものだった。
蝶に触れて、消えていたはずの記憶が蘇って、はっきりと理解した。私は記憶能力に欠陥があるわけではない。記憶が私の意志を離れて、勝手に消えていたわけではなかったのだ。
私は自らの意志によって、記憶を失くしている。
しかも、私が自ら望んで消している記憶は、この屋敷内での出来事についての記憶だけではない。
もっと古い、この屋敷に来るまでの十何年分の記憶も私は消してしまっていた。
いや、むしろそっちが本命だ。忘れたいと強烈に願ったその記憶の内容は、望み通りに綺麗さっぱり消えていて、今でも全く思い出すことができない。
ただその記憶が、私という存在の根幹を成すような重要なものであることは感じる。そんな大切な記憶を消してしまった代償として、私は屋敷にいても記憶が曖昧なのだ。自分の存在を、ひどく希薄なもののように感じてしまうのだ。
今まで感じていた心に巣食う闇とは、私自身のことだったのだ。
なぜ私の記憶が朧げなのかは、もはや問題ではなかった。
私が完全に消滅させてしまった記憶とは何か。
その記憶にはどんな秘密が隠されているのか。
この屋敷にくる前私はどんな人間で何をしていたのか。
それらが私の存在を確立させるための鍵だ。
その秘密とやらは、いつか分かるのだろうか。私の内に潜む闇がいつか光の中に出ることはあるのだろうか。そのとき私は、私のままでいられるのだろうか。
そんなことを部屋でぼんやりと思いはじめると、取り留めもない思考はあちらこちらに広がっていって、しまいには収拾がつかなくなるのだった。
「シオン」
作業に没頭していると、カミーユの声がした。抑揚がないながらも柔らかさを持った、いつも通りの声。私は花を摘んでいた体勢のまま、振り返る。
儀式には特別なデザートのほかに、特別な花も準備しなければならない。儀式用の花は、別館の裏側にある温室でひっそりと育てられていた。
本館のダイニングルームほどの広さを誇る温室には、いつだってシャガの花が、光沢のある濃い緑色の葉の中から真っ白な花を伸ばしている。日当たりがよい場所と手厚い世話ですくすくと育った花々は、目を細めてしまうほど眩しい花弁を開いていた。
姉はガラスの扉を薄く開けて、こちらを覗いていた。彼女の肩の向こうに広がる景色はもうすっかり闇に包まれていて、時間が進む早さに驚く。
「花はそれで十分よ。今日は一日働いたのだから、今日はもう部屋に帰って休みなさい」
「ええ、そうね。すっかり没頭してしまったわ。ありがとう、カミーユお姉さま」
私が答えると、カミーユは薄く微笑んでその姿を闇に溶かして消えた。
私が部屋で気絶した後、蝶の髪飾りのことを彼女は一言も口に出さなかった。失くしたのか、と私に言ったときのあの棘や冷たさが嘘だったかのように、何も着けていない髪を見ても何も言おうとしない。
あの蝶は引き出しの奥に閉まっている。また何かを思い出すかもしれないと思って何度か触れてみたけれど、あのときの衝撃に襲われることは、ついぞなかった。
自ら消した記憶を取り戻すのは、あの一回だけなのかもしれない。蝶は役目を終えたから、もう動かないのかもしれない。私にはもう必要ないから、棚の中で冷たくなっているのかもしれない。
そんな想像を膨らませて、自分が安堵していることを自覚する。もし記憶を全て思い出したら、この屋敷で得た記憶だけでなく、この屋敷に来るまでの記憶をも取り戻してしまったら、私はこの屋敷にいられなくなるだろう。カミーユと双子を直視できなくなるだろう。なぜかそう確信していた。はっきりとした理由も根拠もないのに、断言できるのだ。
全てを思い出した私には、この屋敷は似合わない。
ここではないどこかへ帰らなくてはいけない。
そうすると、今度は記憶が蘇らないことを願うのだった。本当は知らないといけないのだろう。思い出さないといけないのだろう。自分という存在を、自分が何者かということを自覚することは、何にもまして必要なことなのだろう。
しかし、私はずっとここにいたかった。美しい姉妹たちと共に生きていたい。カミーユの透き通った声で囁かれ、双子の華奢な足と一緒に踊りたい。
あんなところにはもう帰りたくない。
「あんなところ」がどこなのかということすら、私は分かっていないのに。
温室を出ると、冷え冷えとした夜空の下で別館が月に照らされて聳えていた。儀式が迫った今、主役となる別館は静かにその存在感を増しているように思う。より荘厳に、より神聖に。周りの木々も別館を引き立てるようにして頭を垂れているようだった。
この時期になると、私はいつも不思議な胸騒ぎを覚える。もう後戻りができないような、ゴールの見えないトンネルに足を踏み出してしまったような、そんな気分になる。
儀式は必ず成功させなくてはいけない。
大きく深呼吸する。自分の中に巣食う不安を、自己嫌悪を、闇を、なるべく出そうとする。大丈夫、大丈夫と自分に向かって呟く。こんな調子では上手くいくものもいかなくなる。
大丈夫。私はやっていける。
最後に別館を見上げた。石造りの独房は私を見下ろしている。
明日、此処で儀式が行われる。




