十五章 蝶の記憶
扉を開けたときに落ちた内の一つが、ピンで固定された翅を震わした。ほんの一瞬だったが、ひどくはっきりと目に留まった。
生きているのだろうか。
しゃがみこんで、ガラス越しに恐る恐る覗きこむ。小窓から射す日光に照らされたそれは、死体とは思えないほど輝いていた。いや、これはかつて生命を持っていたものなのだろうか。明らかに他の蝶とは違う。無機質めいているというか、生きていたものが息を引き取った後の生々しさが全く見当たらない。
人工物。それこそガラスで作られたかのような……。
蝶の髪飾り。あれはガラス細工だった。
「……え?」
思わず声が漏れる。もう一度確認した。間違いない。本物の死体と共に並んでいる蝶は、明らかにカミーユが昨晩着けてくれたものだった。蝶の翅を表現するための繊細な彫刻が、ガラスの冷ややかさが、そうだと私に告げている。
なぜここにある?
私が知らないうちにここに片づけてしまったのだろうか。記憶が消えているうちに。夢遊病に侵されているうちに……。
蝶の標本づくりは繊細な作業だ。いくら慣れているからといって、寝たままの状態で出来るものだろうか。
見つかったという安心よりも、ここにある事実に対しての疑念が膨れ上がる。私は昨晩何をしたのか。なぜカミーユの部屋を出てからの記憶がないのか。知らなくてはいけない。思い出さなくてはいけない。だけど恐ろしい。何が明るみに出てしまうのか、想像もつかないからこそ怖くてたまらない。
とりあえず、蝶をここから出さなくては。そして女王のところに持っていかなくては。恐らく双子もまだ厨房にいるだろう。
ガラス蓋を持ち上げ、動いた蝶の翅にそっと触れる。胸部を貫いている虫ピンを抜き、翅を押さえている展翅テープを丁寧に剥がした。両手で持ち上げる。ひんやりとした、昨晩と同じ感触が掌に伝わってくる。
自由の身になった蝶はしばらく動かなかった。一度ぶるりと翅を震わせて、そのあと徐々に小さな体の隅々にまで生命の意志が流れていく。
もう一度翅を震わせてから、ガラスの蝶は飛び立った。ふわりふわりと空気の波に危なっかしく乗る。昨晩の出来事を彷彿とさせる動きは次第に滑らかなものとなり、昨晩と同じように私の髪の上に着地しようとする。
針金のような足が髪に触れた。
瞬間、電撃のような衝撃が全身を駆け巡った。
「っ……!」
私は声にならない悲鳴を上げて、その場に崩れ落ちる。ぴくぴくと頭の先から足のつま先まで痙攣していた。衝撃は一瞬で過ぎ去ったものの、電気の芯のようなものが体の中に横たわっていて、そのせいでカーペットに爪を立てることすらままならない。
混乱。それに尽きた。呆然とし、自分の体が自分の意志で動かないことに恐ろしくなる。
何が起きたのだ。私の身に何が。
蝶だけが優雅に私の周りを舞っていた。ひらりひらりと翅を広げて、今度は力なく投げ出された手の上に乗る。
微かな体重を感じた。
さっきのとは比べ物にならない何かが私を襲った。
全身が大きく痙攣する。呼吸も上手くできなかった。床に這いつくばる中、瞼の裏に次々と映像が浮かんだ。
「おやすみなさい」と扉を閉める私と、微笑むカミーユ。中庭に浮かぶ月。夢遊病のように裸足で歩き回る双子。
(ああ、そうだ、夢遊病に侵されているのは、双子だったのだ。彼女らは裸足で歩いていた。だから今朝、双子のことが気がかりだった。双子の足の裏が汚れていたのも、中庭を裸足で歩いたせいだ……)
闇の中から伸びる手。
――貴方は悩まなくていいのよ。
カミーユの抱擁。反転。敷地外の塔。錆びたドアノブ。じゃりじゃりと異様な音が。
土を食べるオリヴィエ。彼女は潰れた目で私を見据えている。
オリヴィエの姿が思い出され、私は金切り声を上げた。自分の喉から発せられた声だとは思えない、甲高い不快な悲鳴が部屋中に響き渡る。視界が揺れる。今自分がどんな体勢でいるのかも、把握できない。
映像は続く。
オリヴィエから逃げ出す私。全速で草原を駆けていく最中、自分の体の変化を知る。
全身が長い毛に覆われ、腕は前脚に、足は後ろ脚になって地面を抉り取り、服を捨て、月に向かって遠吠えを上げる。
この獣は、私だ。
(私は獣の姿のまま、どこかへ向かって走り続けた。木の枝が顔に刺さっても、足裏がぼろぼろになっても、服が破れても気にしなかった。だから、今朝起きたときに血と泥に塗れていたのも、裸だったのも、全身の関節が痛んだのも、当たり前なのだ……)
そして、この映像は、この記憶は昨晩の。
空白の中の、消えた記憶だ。
愕然とする。自分で自分が信じられなかった。
どうして急に。今まで思い出したことなんてなかったのに。何がきっかけで。私の体を貫いたあの衝撃は……。
床に落ちている蝶が見えた。ぶれる視界の中で、ガラスの人工物は無機質な色彩を放っている。
あの蝶に触れたときだ。蝶に触れたときに記憶が蘇った。思い出したくなかったものまで、無意識のうちに心の奥に隠していたものまで、全て引っ張りだした。
なぜ、蝶に触れると昨晩の記憶を思い出した?
そもそも、あの蝶はなぜ標本の中にいたのだ。記憶を取り戻したから確信するが、私は蝶を標本になどしていない。
蝶が意志を持って動いたのか。それとも……。
そこで私の意識は途切れた。
ワンピースを捲り上げ、標本に囲まれて気絶している私を発見したのは双子だった。部屋からなかなか降りてこない私を不思議に思ったカミーユから、様子を見てくるように頼まれたらしい。
私は彼女らの手によって、すぐにベッドに寝かされた。真っ青な顔で覗き込んでくる双子の視線から逃れるようにして、私はガラスの蝶をいつまでも見つめていた。
カミーユがくれた髪飾りが動くことは、もう二度となかった。




