十四章 標本の部屋
「シオン」
淡々とした声。決して感情を出さない言い方に、いつもはない冷たさを感じ取った。今朝私の足裏に刺さっていたような棘が、目立たないながらも確実にある。そんなことは滅多になくて、心臓が凍える心地がした。
何かやってしまったのだろうか。彼女の機嫌を損ねる何かを。
無表情のカミーユは、肩まで伸びたままにしている私の髪を眺めた。薄い唇を開く。
「あの髪飾りは着けていないの」
「……髪飾り?」
「……覚えていないの」
彼女の右頬がぴくりと動いた。不快になったときに現れる、私しか知らないサイン。しっかりと見てしまったその反応に、一気に冷や汗が出た。何のことかと首を傾げている双子を横目に、必死で頭を回転させる。
髪飾り? 何のことだろう。私は覚えていない。そもそも私は髪飾りなんか持っていない。
――覚えていないの。
カミーユのこの言葉に聞き覚えがあった。そんなに遠くない過去で私はこの言葉を聞かなかったか。私がまた何かを忘れているときに、彼女に後ろから……。
昨晩の光景がフラッシュバックする。月光が射しているカミーユの部屋が、映像として脳裏に浮かび上がった。鏡台の前に腰掛けた私。彼女は三つ編みを編んでくれた。ここまでは覚えている。問題はここからだ。この後、何があった。
映像の中で、昨晩の私が恐る恐る口を開く。不安や疑念に満たされた、今にも消え入りそうな声だった。
――カミーユお姉さまはどこまで覚えているの。
そうだ、記憶だ。記憶の空白を私は恐れていたのだ。私はおかしいのではないか、壊れているのではないかと思った。カミーユに相談して、麻薬のような言葉を与えられて、後ろから抱かれて。それから……女の子だからもうちょっとお洒落にしようと棚から何かを。
蝶の髪飾り。
ガラス細工の美しい髪飾りを、カミーユは私の三つ編みの上に着けてくれた……。
慌てて髪に手を突っ込んだ。そのままかき乱す。ない。どこをまさぐっても、あの冷たく無機質な感触は蘇ってこない。私の様子から何かを感づいたのか、カミーユが静かに言った。
「失くしたの」
息が荒くなる。眼の奥がつんと熱くなり、顔に力を籠めることで何とか堪えた。ここで泣くわけにはいかない。こんな醜態を双子の前で、妹たちの前で見せるわけにはいかない。
どこで落としたのだろう。昨晩カミーユの部屋から出てどこにいたのか、どこを歩いたのか分からないから探しようがない。胸が締め付けられた。昨日の今日で失くしたなんていったら、彼女は私を軽蔑するだろうか。呆れるだろうか。
せっかくあんなに綺麗だったのに。せっかく彼女が私に似合うと言ってくれたのに。
せっかく……。
「へ、部屋にあるかもしれない。探してくる」
思いつきをそのまま言葉にして、カミーユの反応も見ずに厨房を飛び出した。長い廊下を縺れる足で駆けぬけた。
あのまま彼女の前に立っていられなかった。あのままいたら泣き崩れてしまう。許してくれ、と女王に縋りついてしまう。いつもだったら甘い言葉を、許しを期待できるだろう。だけど今はダメだ。今だけは女王に跪くことはできない。
女王の期待に背いたのは、他でもない私なのだから。
地下から飛び出し、表階段を一段飛ばしで上がる。自分の部屋の扉を勢いのままに開けると、壁にかけていた蝶の標本が音を立てて床に落ちた。
私の部屋の壁の端から端までを埋める標本は、私が中庭で捕らえた蝶を殺して作ったものだ。
闇から生まれたように黒く染まった翅の蝶。宝石のように美しい色と模様の蝶。水をたっぷり含んだ絵の具で塗ったかのような色彩と光沢をもつ蝶……。
それぞれの美しさをもつ虫の死体がずらりと並んでいる様子は、どこか寒々しい博物館のようで、私の気に入っているところだった。
分厚いカーペットのおかげで割れることはなかったが、いっそ落ちたもの全てを自ら壊してしまいたい衝動にかられる。視界はとっくに淡く滲んでいた。
ああ言ったはいいが、私だって部屋にあるとは思っていない。十中八九、外のどこかで落としたのだ。だからといって、外を闇雲に探しても見つかるわけがない。屋敷の敷地は広大だ。
光のない闇に迷い込んだような心地だった。どこを探すわけでなく、標本を元の場所に戻すわけでもなく、部屋をうろうろと歩き回っていたときだ。
カタリと。
死んでいるはずの標本が動いた気がしたのは。




