十一章 一時の塔
ここに彼女はいないのに、彼女の香りを、指先を、息を、存在を感じる。
私の前にカミーユがいる。
一歩踏み出し、私は暗闇に向かって腕を伸ばした。
どこ。どこにいるの。
指は空を切るばかりで、何も掴めない。暗闇には何も存在しない。初めから分かっていたはずなのに、視界が滲んだ。呼吸が荒くなり、一粒の涙が頬を転がり花弁に落ちる音がした。声には出さずに囁く。
貴方まで私に手を差し伸べてくれないの。
貴方も、悪夢の中の「誰か」と同じように……。
「シオン」
声が聞こえる。彼女の指が暗闇から現れ、私の額に触れた。
――貴方は悩まなくていいのよ。
伸びてきたもう一本の腕に引き寄せられ、闇に身を投じる。自分の体さえ見えない、何もかも吸い込まれそうな暗闇の中で彼女にそっと抱かれた。脳髄が震える。姿はないのに、彼女がいた。私の五感全てが、傍にいるのはカミーユだと告げている。
助けに来てくれた。暗闇の中へ、私の望むほうへ導いてくれようとしている。あの「誰か」とは違って。
「カミーユお姉さま」
彼女をしっかりと、しかし潰さないように抱き返す。彼女の甘い香りに全身が包まれる。それだけで私は世界一の幸せ者になれる。
私が見ている世界が不完全かどうかなんて、どうでもよくなる。
一斉に闇が晴れた。月光が視界を満たし、安息の闇を消していく。支えを失った私は、石畳の上に転がった。
……石畳?
慌てて立ち上がる。辺りを見渡して唖然とした。
どうみても中庭ではない。その証拠に、私から見て斜め右方向に屋敷が見えた。外観から判断するに、本館だ。鬱蒼と茂る木々に遮られているが、一度も開けられたことのない玄関扉が何十メートルか先にあることは何とか確認できた。
屋敷の敷地内には本館と別館、中庭しかない。こんな石畳の道を私は知らない。
ということは、ここは屋敷の敷地外なのか。
血の気が引いた。私は物心ついてから屋敷の敷地外に出たことがない。それは双子とカミーユも同様だ。屋敷内で不自由ない生活を送る私たちにとって、外に出るメリットは特にない。
カミーユ。中庭で彼女の体を抱きしめ、闇が薄れるとここにいた。なぜこんなところに連れてこられたのだろう。彼女もここにいるのだろうか。ここは一体どこなのだろう。
ぼっかりとした月は相変わらず夜空に浮かんでいた。さらさらとした月光が辺り全体を冷たく照らしている。そのおかげで、屋敷からみた自分の位置を把握するのは案外簡単だった。
屋敷からみて一時の方角に私はいた。
一時の方角。その言葉に聞き覚えがあった。
記憶違いでないなら、私の近くにきっとアレがあるはずだ。
振り返ると、思った通りすぐ後ろに塔が聳え立っていた。屋敷と同じく石造りで、あまりにも高いから天に突き刺さっている。塔の先端が月光を反射し、流れ星のように煌めいていた。
屋敷から一時の方角に位置するこの塔は、私が気づいたときにはもうそこに建っていた。中庭から見えるそれはどこか古風で、どこまでも忠実な中世のヨーロッパの騎士を彷彿とさせた。一目見たときから気になっていた私は、いつかカミーユに聞いたのだ。
あれは何なのか。あの塔へ行くことはできないのか。
ちらりと塔を視界に入れたカミーユは、「ああ、あれはね」と微笑した。
「必要なときがきたら、きっとあの塔の頂上へ登ることができるわ」
今までここに来たことはなかった。いや、今も自分で来たわけではない。カミーユによって連れてこられた。今の私には塔がふさわしいと、彼女が判断したのだろうか。
今が、彼女が言っていた「必要なとき」なのだろうか。
風が吹いた。塔の古びた扉が、私が手を伸ばせばすぐに届く距離にある。今更ながら、石畳を踏んでいる裸の足が冷たくなっているのが分かった。中庭で見たよりも大きくなった月が私を眺めている。
扉に向かって、恐る恐る手を伸ばした。錆びた取っ手を掴み、ゆっくり下に体重をかけていく。がちゃり、と重い扉が開いていく音が嫌なほど辺りに響いた。
じゃり。
取っ手を一番下まで下げる。ひどく細い隙間から闇の気配が色濃く溢れだしてきた。気が怯む。取っ手を握る指に力を込めた。
じゃり、じゃり。
薄く息を吐きだしたところで、後ろから変な音がすることに気づいた。何か硬いものを噛み砕いているような、歯と歯が擦れあっているような音が……。
じゃり、じゃり、じゃり。
音はゆっくりと、しかし確実に近づいてくる。こんな音、屋敷内では聞いたことがない。一体、何の……。
そこまで考えたところで、ここが屋敷の敷地外であることを思い出す。ひっ、と悲鳴になりきらなかった声が口から洩れた。
そうだ、ここは安全に守られた屋敷ではないのだ。屋敷から何十メートルしか離れていなくても、敷地外である以上ここは私の考えの全く及ばない異世界だ。
屋敷の外にはろくでもない奴らばかりがいる。私はそれを知っていたはずだ。
体が震える。気温は涼しいはずなのに、大量の汗が額を流れていった。
振り返らなくては。何がいようとも、その姿を自分の目で確認するまでは、逃げることもままならない。それに背中から襲われるよりは、正面から食らうほうがまだマシだろう。
爪が食いこむほど拳を握りしめる。音を立てないようにそっと振り返った。
淡く冷たい色に染まる世界の中、私のすぐそばの石畳の上にそれはいた。




