第93話 白鷺六花は幸せをかみしめる。
土曜日。
白鷺六花は鏡の前で三度目のため息をついていた。
「……これでいいかな」
そう呟いてみる。
もちろん答える人はいない。
今日はデートだった。
付き合って初めての。
映画の約束をした日だった。
服を選ぶだけでこんなに悩むとは思わなかった。
昨夜から何回着替えたかわからない。
小春に相談しようかとも考えた。
でも絶対に面白がられる。
それは分かりきっていた。
結局、一番無難そうな服に落ち着いた。
鏡を見て。
大丈夫、と自分に言い聞かせる。
言い聞かせた結果、全然大丈夫じゃなくなった。
◇
待ち合わせ場所には尚哉が先に来ていた。
六花は少しだけ安心する。
もし自分が先に着いていたら、緊張でどうにかなっていた気がした。
「おはよう」
声を掛ける。
尚哉が振り返った。
「おう」
それから少しだけ黙る。
六花は首を傾げた。
「どうしたの?」
「いや」
尚哉は視線を逸らした。
そして。
「似合ってると思う」
「え?」
「服」
短い言葉だった。
「なんかいいと思う」
六花は固まった。
朝から何十分も悩んでいたのに。
たった一言で全部報われてしまう。
「そ、そっか」
なんとか返事をする。
尚哉も少し居心地が悪そうだった。
だから二人とも、それ以上は何も言わなかった。
けれど。
六花は待ち合わせをしてからまだ五分も経っていないのに、もう来てよかったと思っていた。
◇
映画は期待以上に面白かった。
二人とも夢中になって見ていた。
終わった後も自然と感想を話せた。
それが少し嬉しい。
無理に話題を探さなくてもいい。
同じものを見て、同じ時間を過ごして、それだけで会話になる。
文化祭の頃から感じていた心地良さが、今はもっと近い場所にある気がした。
映画館を出た後はショッピングモールを歩いた。
特に目的はない。
気になった店に入って。
少し見て。
また歩く。
そんな時間。
「綺麗……」
雑貨店で六花は足を止めた。
ガラス細工が並んでいる。
光を受けて小さく輝いていた。
思わず見入っていると、隣から声がした。
「好きそうだな」
六花は振り返る。
「なんで?」
「前に言ってただろ」
尚哉は商品を見たまま答える。
「こういうの好きだって」
六花は目を瞬いた。
そんな話をしたことは覚えている。
でも。
尚哉が覚えていたことに驚いた。
「覚えてたの?」
「まあ」
いつもの短い返事。
けれど六花は少しだけ笑った。
映画のこともそうだった。
何気なく話したことを覚えていてくれる。
それが嬉しかった。
たぶん本人は大したことだと思っていない。
だから余計に嬉しい。
◇
気付けば外は夕方になっていた。
二人は駅へ向かう。
帰り道。
今日が終わってしまうことを少しだけ寂しく思う。
そんなことを考えていた時だった。
「あっ」
足がもつれた。
慣れないパンプスだった。
転ぶほどではない。
けれど体が傾く。
その瞬間。
手を掴まれた。
「危な」
尚哉だった。
六花の手を握ったまま立ち止まる。
「大丈夫か」
「う、うん」
声が少し裏返った。
尚哉は気付いていないらしい。
本当に心配している顔をしている。
それがまた困る。
手を握られていることを意識しているのが、自分だけみたいだった。
数秒後。
尚哉が先に気付いた。
「あ」
慌てて手を離す。
「悪い」
「ううん」
六花は首を振った。
全然嫌じゃなかった。
むしろ。
その逆だった。
◇
駅へ着く。
デートの終わりの別れ際。
「今日はありがとう」
六花が言う。
尚哉は少し考えた。
そして。
「楽しかった」
そう言った。
六花は思わず笑う。
「私も」
自然に答えられた。
尚哉は少しだけ視線を逸らした。
それから。
「また行くか」
当たり前みたいな口調だった。
特別なことを言ったつもりもないのだろう。
けれど。
六花には十分だった。
今日だけじゃない。
またがある。
次がある。
それがたまらなく嬉しかった。
「うん」
六花は頷く。
たぶん今、自分はかなり幸せな顔をしている。
映画も楽しかった。
買い物も楽しかった。
尚哉の優しさも嬉しかった。
でも。
一番嬉しかったのは。
これから先も一緒にいられる気がしたことだった。
白鷺六花は幸せをかみしめる。




