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第92話 白鷺六花は誘われる。

 二人は付き合い始めた。


 昨日、小春にも知られた。


 私は橘尚哉くんの彼女になった。


 それなのに。


「はぁ……」


 六花は机へ突っ伏した。


 昼休み。


 教室の中はいつも通り賑やかだった。


 けれど六花の頭の中は別のことでいっぱいだった。


 恋人って何をするんだろう。


 付き合ったら何か変わると思っていた。


 でも。


 朝も。


 昼も。


 帰り道も。


 生活は変わらない。


 もちろん嫌ではない。


 むしろ嬉しい。


 今まで通り隣にいられる。


 それだけで十分幸せだった。


 でも。


 何かが足りない気がした。


     ◇


「どうしたの?六花ちゃん」


 向かいへ座りながら小春が言う。


「なんでもない…」


「嘘だ」


「嘘じゃないよぅ…」


「嘘だね」


 こういう時の小春は鋭い。


 六花は小さくため息を吐く。


「……デートって」


「うん」


「するものなのかな」


 小春は固まった。


「え?」


「え?」


「してないの?」


「してないけど」


「えぇぇ……」


 六花は少し肩をすくめる。


「だって付き合ったばっかりだし」


「付き合ったばっかりだからするんでしょ!」


 小春は思わず椅子から立ち上がる。


「例えば映画とか!」


「うん」


「買い物とか!」


「うん」


「水族館とか!」


「うん」


「行きたいと思わないの?」


「行きたい」


 六花は素直に答えた。


「じゃあ誘えばいいじゃん」


「それができたら悩んでないの…」


「小春ちゃん…私、どうすれば良いのかなぁ」


 涙目で小春に訴えてくる六花。


 なんでもテキパキこなす六花のイメージとは程遠い。


 小春は頭を抱えた。


「恋って、恋って難しい……」


「なんで小春ちゃんが悩むの」


 昼休みはそのまま終わった。


     ◇


 放課後。


 生徒たちが帰り支度を始める。


 六花も鞄を持ちながら考えていた。


 今度どこか行かない?


 …無理。


 考えただけで顔が熱くなる。


 土曜日暇?


 …もっと無理。


 あのさー、映画とかどうかな?


 …さらに無理だった。


 好きだって、ちゃんと言えたのに。


 どうしてこんなことはうまく言えないのだろう。


 六花は小さく頭を抱えた。


     ◇


「白鷺」


 不意に名前を呼ばれる。


 顔を上げる。


 尚哉だった。


「そろそろ帰るか」


「う、うん」


 二人で教室を出る。


 廊下を歩く。


 校門を抜ける。


 何度も歩いた帰り道だった。


 今日こそ言おう。


 六花はそう決めていた。


 今度、どこか行かない?


 たったそれだけ。


 たったそれだけなのに。


 うまく言葉が出てこない。


     ◇


「白鷺」


 駅へ向かう途中。


 今度は尚哉の方から声がした。


「ん?」


「これ」


 差し出されたものを見る。


 六花は目を疑う。


 それは映画のチケットだった。


 しかも二枚。


「……え?」


 タイトルを見る。


 見覚えがあった。


 少し前。


 帰り道で何気なく話した映画だった。


『これ観てみたいんだよね』


 たしか、そう言った。


「覚えてたの?」


 思わず聞く。


 尚哉は少しだけ視線を逸らした。


「まあ」


 短い返事だった。


 けれど六花には十分だった。


「付き合ってるなら」


 尚哉は少しだけ言葉を探す。


「行きたい所くらい連れていけた方がいいかと思って」


 六花は何も言えなかった。


 胸の奥が熱かった。


 今日一日。


 どうやって誘おうか悩んでいたこと。


 言えなくて落ち込んでいたこと。


 全部吹き飛んでしまうくらい。


 嬉しかった。


「……行く」


 ようやくそれだけ言う。


 尚哉は頷いた。


「ああ」


 それからはもう、


 六花はずっと笑顔を隠せなかった。


 白鷺六花は誘われる。

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