第9話 一色玲奈は空を見ている。
ギィ――。
重たい音を立てて屋上の扉を開ける。
夕方の風が吹き込んで、
尚哉は目を細める。
赤く染まりかけた空。
フェンスの向こうに広がる街並み。
遠くから運動部の掛け声が聞こえる。
そして。
一色玲奈はそこにいた。
フェンスの近くに立ち、空を見上げている。
「……」
尚哉は立ち尽くした。
本当に…いた。
ノートに書かれていた通りだ。
【一色玲奈は屋上へ行く。】
その文字が頭をよぎる。
玲奈はまだ、こちらに気付いていない。
ただ静かに空を見ている。
風に髪が揺れていた。
その横顔はどこか儚げで。
まるで景色に溶け込んでしまいそうだった。
「一色」
尚哉は声をかけた。
玲奈が振り返る。
「あ……」
少し驚いた顔。
図書室で見せる反応と同じだった。
「橘…くん……」
「何してるんだ」
玲奈は少しだけ空を見る。
「えっと……」
それから小さく言った。
「空を見てました」
尚哉は思わず言葉を失う。
空を見ている。
それもまた。
ノートに書かれていた通りだった。
「よく来るのか?」
尚哉が聞く。
玲奈は小さく頷く。
「たまに……」
「なんで」
少し間が空いた。
「静か…だから」
玲奈はそう答えた。
「図書室も静かだろ」
「そう…ですけど……」
玲奈は困ったように笑う。
「ここは空が見えるので」
そう言って再び空を見上げた。
赤く染まった雲。
少しずつ色を変えていく夕焼け。
玲奈はそれを眺めている。
ただそれだけだった。
少なくとも。
今のところは。
◇
二人は少し離れた場所に並んで立っていた。
玲奈は元々口数が少ない。
尚哉も別に話好きではない。
だから沈黙が続く。
だが不思議と居心地は悪くなかった。
「一色ってさ」
尚哉が口を開く。
「友達いるのか」
玲奈は静かに言う。
「はい。クラスに本が好きな子がいて。」
「そうか」
「はい」
会話終了。
だが。
尚哉は少しだけ違和感を覚えた。
嘘をついているようには見えない。
本当にいるのだろう。
◇
「橘くんは」
珍しく玲奈から話しかけてきた。
「どうしてここに?」
「え?」
「屋上」
尚哉は言葉に詰まる。
まさか黒いノートを見たからとは言えない。
「なんとなく…」
そう答える。
玲奈は少しだけ笑った。
「嘘です」
「は?」
「なんとなくじゃ、ない気がします」
尚哉は思わず玲奈を見る。
玲奈はすぐに視線を逸らした。
「……たぶん」
「たぶんかよ」
「あ……」
玲奈が少し慌てる。
「ごめんなさい」
「なんで謝るんだ」
「えっと……」
玲奈は困ったように黙り込んだ。
やっぱり不思議な子だ。
尚哉はそう思った。
◇
しばらくして。
校内放送が流れた。
完全下校時刻を知らせる放送だった。
「あ」
玲奈が小さく声を漏らす。
「もう帰らないと」
「そうだな」
二人は屋上を後にする。
階段を降りながら。
尚哉は考えていた。
玲奈は普通だった。
少し人見知りで。
少し自己評価が低くて。
少し変わっている。
でも。
危険な様子には見えなかった。
やっぱり考えすぎだったのかもしれない。
そう思おうとする。
それでも、
屋上で空を見上げていた玲奈の横顔が頭から離れなかった。
あの時。
玲奈は何を見ていたのだろう。
空ではなく。
もっと別の何かを見ているような気がした。
【一色玲奈は空を見ている。】
ノートの通りだった。
◇
帰宅後。
尚哉は机の引き出しから黒いノートを取り出した。
ゆっくりとページを開く。
そこには変わらず文字が並んでいる。
【一色玲奈は屋上へ行く。】
【一色玲奈は空を見ている。】
そして。
その下に書かれた一文。
【一色玲奈は何も言わない。】
尚哉はその文字を見つめる。
今日の玲奈は確かに多くを語らなかった。
だけど、
何も言わないほどではないと思う。
この文章の意味だけは分からなかった。
それが…不安だった。




