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第88話 橘尚哉は苛立っている。

 放課後。


 帰りのホームルームが終わり、生徒たちはそれぞれ帰り支度を始めていた。


     ◇


「じゃあ行くわ」


 灰原が鞄を肩へ掛ける。


「部活?」


 尚哉が聞く。


「当たり前だろ」


「毎日ご苦労なことで」


「お前も少しは見習え」


 灰原は笑いながら教室を出ていった。


     ◇


「私も委員会〜」


 小春も立ち上がる。


「六花ちゃんは?」


「先生に頼まれたプリント届けてくる」


 六花が答えた。


「あー、また頼まれてるぅ」


「まただね」


 六花は苦笑する。


     ◇


「じゃ、また明日!」


 小春も去っていく。


 教室には少しずつ人が少なくなっていった。


     ◇


 尚哉は窓の外を見た。


 今日は珍しく一人だった。


 特に急ぐ用事もない。


 帰るのも面倒だった。


     ◇


「……」


 なんとなく立ち上がる。


 教室を出る。


 そのままベランダへ向かった。


     ◇


 夕方の風が吹いていた。


 空は少し赤くなり始めている。


 尚哉は手すりへ軽く寄りかかった。


     ◇


 すると。


 隣のベランダから声が聞こえてきた。


 女子生徒たちだった。


     ◇


「白鷺さんってさ」


     ◇


 聞き慣れた名前だった。


 尚哉は無意識に視線を向ける。


 顔は見えないが、声は聞こえる。


     ◇


「どうしたの急に」


「いや、なんかさ」


 女子生徒が続ける。


     ◇


「良い子ぶってて結構苦手なんだよね」


     ◇


 尚哉は黙っていた。


     ◇


「分かるかも」


 もう一人が言う。


     ◇


「なんか本心見えないっていうか」


「絵に描いたような優等生って感じ?」


「そうそう」


     ◇


「男子とかはああいう子好きそうだけどね」


「確かに」


「まあ顔は可愛いとは思うけど」


     ◇


 二人の女子生徒は笑っていた。


     ◇


 尚哉は何も言わない。


 言う理由もない。


 ただの噂話だ。


 どこにでもある。


     ◇


 それなのに。


     ◇


「……」


     ◇


 妙に腹が立った。


     ◇


 良い子ぶってる。


 本心が見えない。


     ◇


 違うだろ。


     ◇


 尚哉はそう思った。


     ◇


 白鷺は。


 頼まれたら断れない。


 だから抱え込む。


     ◇


 無理をする。


 でも隠す。


     ◇


 困っている奴を放っておけない。


     ◇


 だからたまに失敗する。


     ◇


 完璧じゃない。


     ◇


 良い子ぶれるほど器用じゃない。


 あいつはむしろ不器用だ。


     ◇


「……」


     ◇


 知っている。


     ◇


 俺は知っている。


     ◇


 尚哉は小さく息を吐いた。


 これ以上聞いていられなかった。


     ◇


 そのままベランダを離れる。


 廊下を歩く。


     ◇


 けれど。


 胸の奥のざわつきは消えなかった。


     ◇


 なんでこんなにも腹が立つんだろう。


     ◇


 自分でもよく分からない。


     ◇


 ただ。


 白鷺はそんな奴じゃない。


     ◇


 それだけははっきりしていた。


     ◇


「あれ?」


 声がした。


     ◇


 顔を上げる。


 廊下の先。


 プリントを抱えた六花が立っていた。


     ◇


「橘くん?」


     ◇


 六花は少し不思議そうな顔をしている。


     ◇


「まだ学校いたんだ」


「まあ」


     ◇


 六花は笑った。


     ◇


「私も今終わったところ」


     ◇


 いつもの笑顔だった。


     ◇


 それを見た瞬間。


 さっきまでの苛立ちが少しだけ薄れる。


     ◇


「帰ろうよ」


 六花が言う。


     ◇


「…そうだな」


 尚哉も頷いた。


     ◇


 二人は並んで歩き出す。


 会話はいつも通りだった。


 特別な話は何もない。


 そこには間違いなく素の六花がいた。


     ◇


 尚哉は考えていた。


 白鷺はそんな奴じゃない。


 俺は知っている。


     ◇


 あいつらが知らないだけだ。


 そんな事わかってるのに…


 なんで、こんなに腹が立ったんだろう。


     ◇


 橘尚哉は苛立っている。

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