第84話 白鷺六花は困惑している。
翌朝。
教室へ入ると窓際の席には、もう先客がいた。
橘尚哉だった。
頬杖をつきながら窓の外を眺めている。
いつもの光景。
見慣れた姿。
それなのに。
◇
「おはよう」
六花は声を掛けた。
「ああ」
尚哉が振り返る。
「おはよう」
本当にそれだけ。
いつもと何も変わらない。
◇
「……」
六花は自分の席へ座る。
鞄を置く。
教科書を出す。
いつも通りなのに、妙に落ち着かなかった。
どうしてだろう。
昨日から少し変だと六花は思う。
◇
授業が始まる。
ノートを取る。
先生の声が教室へ響く。
いつも通りの授業の風景。
◇
その時だった。
手が滑る。
消しゴムが机から落ちた。
「あ」
小さな音を立てて転がる。
六花は身をかがめた。
同じ瞬間。
隣からも手が伸びていた。
◇
指先が少しだけ触れる。
本当に一瞬。
「おっと」
尚哉が先に消しゴムを拾った。
「あ、ありがと」
「ん」
尚哉は消しゴムを渡す。
それだけ。
◇
「……」
六花は消しゴムを受け取る。
尚哉はもう前を向いていた。
何も気にしていないらしい。
◇
六花だけが少し変だった。
なぜか心臓が落ち着かない。
意味が分からない。
今までだって近くにいた。
文化祭の準備もした。
一緒に帰った。
ペットボトルだってあった。
それなのに。
どうして今さらこんなことを気にするのだろう。
◇
昼休み。
いつもの四人だった。
小春が話す。
灰原が笑う。
尚哉がやきそばパンを食べる。
いつもの昼休み。
◇
「六花ちゃん」
小春が言った。
「今日なんか静かじゃない?」
「え?」
六花は顔を上げる。
「そうかな」
「そうかもな」
灰原も言う。
「寝不足?」
「違うよ」
六花は苦笑した。
◇
「なんかそんな感じするけどな」
尚哉まで言う。
六花は少しだけ視線を逸らした。
「してないって」
本当だった。
寝不足ではない。
問題は別のところにある。
ただ、それが何なのか自分でもよく分からなかった。
◇
放課後。
帰りのホームルームが終わる。
六花は鞄を持った。
「じゃあ帰るか」
尚哉が言う。
「うん」
二人で教室を出た。
◇
校門を抜ける。
駅へ向かう。
会話はいつも通りだった。
授業の話。
灰原の話。
小春の話。
他愛もない内容ばかり。
◇
「それでさ――」
尚哉が何かを言った。
「え?」
六花は聞き返す。
「聞いてなかったのか」
「ご、ごめん」
六花は少し慌てた。
尚哉は苦笑する。
「珍しいな」
「ちょっと考え事してて」
「ふーん」
それ以上は聞いてこなかった。
◇
考え事。
確かにそうだった。
でも。
何を考えていたのかと言われると困る。
どちらかと言うと話す尚哉の横顔に集中していたような。
気付けば考えている。
気付けば意識している。
理由は分からない。
◇
駅が近付く。
別れ道も近付く。
「じゃあ…また明日」
六花が言う。
「ああ」
尚哉は頷く。
「また明日」
いつもと同じ。
本当に同じ。
◇
尚哉は振り返る事もなく駅の方へ歩いていく。
六花はその背中を見送っていた。
わたし、昨日から少し変だ。
今日も変だった。
自分でももう、よく分からない。
六花は小さく息を吐く。
そして、このよくわからない気持ちに振り回されている気がした。
白鷺六花は困惑している。




