第77話 橘尚哉は気にしていない。
文化祭まで二週間。
放課後の校舎は少しずつ騒がしくなっていた。
教室からは笑い声。
廊下からは机を運ぶ音。
どこかのクラスでは段ボールを切る音も聞こえる。
文化祭が近付いている。
そんな空気だった。
◇
文化祭実行委員室。
六花は資料を広げていた。
尚哉は隣で進行表を確認している。
作業は順調だった。
「ここ修正した?」
六花が聞く。
「した」
「ありがとう」
「別に」
短いやり取り。
それで終わる。
◇
しばらく沈黙が続く。
紙をめくる音。
ペンを走らせる音。
窓の外から聞こえる運動部の声。
会話はない。
けれど気まずくもなかった。
六花は資料を見る。
尚哉も資料を見る。
それぞれ別の作業をしている。
ただ同じ空間にいる。
それだけだった。
◇
「おー」
突然声がした。
小春だった。
実行委員室を覗き込んでいる。
「まだやってたんだ」
「やってたよ」
六花が答える。
「仲良しだね〜」
「違う」
「違うな」
二人同時だった。
小春が吹き出す。
「そこ揃うんだ」
「揃うだろ」
尚哉が言う。
「仕事だから」
六花も頷いた。
小春は何故か嬉しそうに聞いている。
◇
「じゃ、お邪魔しました〜」
小春は手を振って去っていく。
部屋は再び静かになった。
「相変わらずだな」
尚哉が呟く。
「うん」
六花も笑う。
それだけ話して、また作業へ戻った。
◇
気付けば三十分ほど経っていた。
進行表の確認も終わりに近い。
「そういえば――」
六花が口を開く。
その瞬間だった。
「ごほっ」
喉に引っ掛かった。
咳き込む。
「ごほっ、ごほっ」
「大丈夫か」
尚哉が顔を上げる。
そしてほとんど反射だった。
机の上に置いてあったペットボトルをそのまま差し出す。
「ほら」
六花も反射的に受け取った。
キャップを開けて飲む。
少し落ち着く。
「……ありがとう」
「ん」
尚哉はまた資料へ視線を戻した。
◇
数秒後。
六花は手元のペットボトルを見た。
「……」
透明なラベル。
半分ほど残った飲み物。
そして。
「……あ」
小さく声が漏れる。
尚哉が顔を上げた。
「ん?」
「これ」
「これ?」
六花は言葉に詰まる。
尚哉もペットボトルを見る。
数秒。
沈黙。
「ああ」
ようやく理解したらしい。
「悪い」
「いや」
六花は慌てて首を振った。
「別に」
別に嫌だったわけじゃない。
ただ少し驚いただけで。
「ごめん」
「いや」
尚哉はペットボトルを受け取る。
そして。
普通に飲んだ。
◇
「……飲むんだ」
思わず六花が言う。
「?」
尚哉は首を傾げた。
「何が」
「いや……」
六花は言葉を濁す。
尚哉は本当に分かっていないらしい。
「別に気にしてないし」
そう言って資料へ目を戻す。
六花は少しだけ困った。
そして少しだけ笑った。
橘尚哉はそういう人だった。
◇
作業はそのまま続いた。
会話はほとんどない。
けれど沈黙は苦にならなかった。
むしろ心地よかった。
窓の外を見る。
夕日が少しずつ傾いている。
「終わった」
尚哉が言った。
「終わったね」
六花も頷く。
今日の作業は予定より早く終わっていた。
◇
帰り道。
二人は並んで歩いていた。
夕方の風は涼しい。
「今日」
六花が言う。
「ん?」
「全然話してなかったね」
尚哉は少し考える。
「そうか?」
「そうだよ」
「まあ、相談しなきゃいけない事も特に無かったし」
当たり前みたいに言った。
六花は少し笑う。
「私も」
そう答えた。
尚哉も特に何も言わない。
それで会話は終わった。
◇
駅が近付く。
別れ道も近付く。
話さなくても平気だった。
それは少し不思議なことのような気がした。
でも嫌じゃなかった。
むしろ。
気付けば今日も、もう別れ道だった。
橘尚哉は気にしていない。




