第75話 橘尚哉は考えていない。
文化祭の準備は少しずつ進んでいた。
放課後の校舎には、いつもより多くの生徒が残っている。
教室の飾り付け。
出し物の打ち合わせ。
実行委員の仕事。
賑やかな空気が校内に広がっていた。
◇
「将来さ〜」
小春が言った。
昼休み。
いつものように集まっている時だった。
「みんな何になりたいとかある?」
「急だな」
尚哉が言う。
「急じゃないよ〜」
「急だろ」
灰原も笑う。
「でもまあ、考えたことはあるな」
「おっ」
小春が食いつく。
「灰原くん何?」
「内緒」
「なんで!?」
「まだ言わない」
灰原は楽しそうだった。
小春は不満そうだった。
◇
「六花ちゃんは?」
「私?」
六花は少し考える。
「…まだ分かんないかな」
「えー」
「本当に」
六花は苦笑した。
やりたいことがないわけではない。
でも。
はっきり言えるほどでもなかった。
◇
「橘くんは?」
小春が聞く。
尚哉はパンを食べながら答えた。
「別に」
「別に?」
「何でもいい」
「何でもいいって何」
「何でもいいは何でもいいだろ」
小春は首を傾げる。
灰原も少しだけ眉を上げた。
けれど尚哉は本当に興味がなさそうだった。
◇
その話はすぐに終わった。
小春が別の話題を始めたからだ。
いつものことだった。
皆も気にしていない。
けれど。
六花は尚哉の言葉が少しだけ気になった。
◇
放課後。
文化祭の資料整理を終えた帰り道。
二人は駅へ向かって歩いていた。
夕日が街を赤く染めている。
「昼の話だけど」
六花が言った。
「ん?」
「将来の話」
尚哉は少し考える。
「ああ」
「本当に何でもいいの?」
「何でもいい」
即答で返してきた。
あながち冗談ではないらしい。
◇
「やりたいこととかないの?」
「特に」
「夢とか」
「ないな」
六花は少しだけ困った。
そんな人に会ったことがなかった。
みんな少しくらいはある。
将来こうなりたい。
これをやってみたい。
そういうものが。
「じゃあ未来の自分とか想像しない?」
尚哉は少しだけ考える。
「しないな」
「全然?」
「全然」
やっぱり即答だった。
◇
風が吹く。
桜の葉が揺れる。
「不安にならない?」
六花が聞いた。
「何が」
「将来」
尚哉は首を傾げた。
本当に意味が分からないらしい。
「別に」
そう答える。
「まあ何とかなるだろ」
軽い口調だった。
けれど。
六花には少し違って聞こえた。
◇
「それって」
六花が言う。
「期待してるんじゃなくて?」
「ん?」
「諦めてるみたい」
尚哉は足を止めた。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけだった。
それから少し笑う。
「そうかもな」
否定しなかった。
六花は少し驚く。
◇
「未来とか」
尚哉が言う。
「別に俺じゃなくてもいいだろ」
「え?」
「誰がやっても同じだし」
さらっと言う。
まるで当たり前みたいに。
六花は言葉を失った。
尚哉は気付いていない。
今の言葉がどれだけ寂しいか。
自分で気付いていない。
◇
「私は違うと思う」
気付けばそう言っていた。
尚哉が振り返る。
「そうか?」
「うん」
六花は頷く。
「橘くんじゃないと駄目なこともあると思う」
「例えば?」
「……」
六花は少しだけ考える。
すぐには出てこない。
でも。
「あるよ」
そう言った。
「たぶん」
尚哉は少し笑った。
「雑だな」
「橘くんに言われたくないよ」
今度は二人とも笑った。
◇
駅が近付く。
別れ道も近付く。
「じゃあな」
尚哉が言う。
「うん」
六花は頷いた。
「また明日」
「また明日」
尚哉は駅へ向かう。
六花は一人になってから、考える。
◇
未来に興味がない。
将来を想像しない。
誰がやっても同じ。
尚哉は本気でそう思っている。
それが少しだけ悲しかった。
優しい人なのに。
誰かを助けることができる人なのに。
自分のことだけは、どうしてそんなふうに考えるのだろう。
夕暮れの風が吹く。
六花は小さくため息をついた。
橘尚哉は考えていない。




