第72話 白鷺六花も気づいている。
朝。
教室へ入った瞬間だった。
「ごほっ……」
小さな咳が聞こえる。
窓際の席。
橘尚哉が口元を押さえていた。
それほど大きな音ではない。
だから気付いたのも偶然だった。
尚哉は何事もなかったように席へ座る。
六花もそのまま自分の席へ向かった。
◇
「あれ?橘くん」
小春が声を掛ける。
「ん?」
「今咳してた?」
「そうか?」
「風邪?」
「知らん」
「なんだそれ」
小春は笑った。
「じゃあ風邪じゃないか」
「大丈夫だ」
会話はそれで終わった。
小春は別の話を始める。
尚哉も普通に返していた。
六花も特に気にしなかった。
その時は。
◇
一時間目。
教科書を開く音が響く。
先生の声。
ノートを取る音。
いつもの授業。
六花はふと前を見る。
窓際の席。
尚哉が一瞬だけ目を閉じていた。
眠いのだろうか。
それとも。
すぐに目を開いたので、六花も気にしないことにした。
◇
昼休み。
六花は小春と話していた。
その時。
「ごほっ」
また咳が聞こえた。
振り向く。
尚哉だった。
パンを食べながら水を飲んでいる。
本人は特に気にしていないようだった。
灰原と何か話して笑っている。
「六花ちゃん?」
「あ、ごめん」
小春の声で我に返る。
「どうしたの?」
「なんでもないよ」
六花は笑った。
本当に何でもなかった。
ただ少しだけ気になっただけだった。
◇
放課後。
六花が帰り支度をしていると、
尚哉が先に席を立った。
鞄を肩に掛ける。
いつもより早い気がした。
「じゃあな」
灰原へそう言う。
「おう」
それだけ。
特に誰も引き留めない。
尚哉もそのまま教室を出ていった。
六花はなんとなく時計を見る。
まだ少し早い。
珍しいなと思った。
◇
帰り道。
六花は駅前のコンビニへ立ち寄った。
飲み物を買うためだった。
冷蔵棚を開く。
スポーツドリンク。
お茶。
炭酸。
色々並んでいる。
その横にゼリー飲料が見えた。
「……」
六花は少しだけ立ち止まる。
そういえば。
橘くん、少し辛そうだったかもしれない。
そんなことを思う。
別に大したことではない。
明日には元気になっているかもしれない。
そもそも風邪かどうかも分からない。
「……」
分からないのに。
なぜか足は止めたまま。
◇
スポーツドリンク。
ゼリー飲料。
どっちがいいんだろう。
六花は棚を見つめる。
自分でもよく分からない。
渡すかどうかも決めていない。
なのに選んでいる。
「何してるんだろ」
小さく呟いた。
それでも。
少し迷ったあと、
結局両方手に取った。
◇
改札前。
尚哉がベンチに座っていた。
俯いてスマホを見ている。
六花は思わず立ち止まった。
それから近付く。
「あ」
尚哉が顔を上げる。
「白鷺」
「まだいたんだ」
「電車待ち」
「そっか」
少しだけ沈黙。
六花は鞄の中へ手を入れる。
そして。
「これ」
袋を差し出した。
尚哉が目を見開く。
「え、何」
「たぶん風邪の人用」
「たぶん?」
「たぶん」
尚哉は思わず笑った。
「雑だな」
「橘くんに言われたくないよ」
六花も少し笑う。
「確かにな」
尚哉は袋を見る。
スポーツドリンクとゼリー飲料。
「……ありがとな」
小さくそう言った。
六花は少しだけ驚いた。
でもすぐに笑う。
「どういたしまして」
◇
電車がホームへ入ってくる。
「じゃあな」
尚哉が立ち上がる。
「うん」
「また明日」
「また明日」
尚哉は改札を抜けていった。
六花はその背中を見送る。
そして自分も歩き出した。
◇
家へ帰る。
制服を着替える。
鞄を置く。
ふと。
今日のことを思い出した。
朝の咳。
昼休みの咳。
少し疲れた顔。
「……」
早く治るといいな。
そう思った。
そんな事を思いながら、
六花は部屋の明かりをつけた。
白鷺六花も気づいている。




