第71話 橘尚哉は気づいている。
白鷺六花が、スピーチ大会の学校代表に選ばれた。
それを聞いた時、教室は少しだけざわついた。
「え、すごいじゃん六花ちゃん!」
小春が真っ先に声を上げる。
「学校代表ってことでしょ?」
「うん……まあ」
六花は少し照れたように笑った。
「先生に頼まれて」
「また頼まれてる」
尚哉が呟く。
六花は聞こえたらしく、少しだけこちらを見る。
「今回は断れないでしょ」
「いつも断ってないだろ」
「それは……」
六花は言葉に詰まる。
小春が横から笑った。
「でも六花ちゃんなら絶対大丈夫だよ!」
「そうかな」
「そうだよ!」
小春は自信満々だった。
六花も小さく笑う。
「ありがとう。頑張るね」
その笑顔はいつも通りだった。
けれど尚哉は、ほんの少し気になる。
頑張る。
六花がそう言うと、本当に頑張りすぎる気がした。
◇
大会は一週間後だった。
それから六花は、放課後になると空き教室で練習をするようになった。
原稿を書き直し。
先生に確認してもらい。
発声練習をして。
何度も最初から読み直す。
「私たちがこれから考えなければならないのは――」
廊下を通るたびに、六花の声が聞こえた。
最初はよく通る声だった。
丁寧で。
落ち着いていて。
いかにも白鷺六花らしい声。
けれど日が経つにつれて、少しずつ変わっていった。
「……っ」
途中で小さく咳をする。
水を飲む。
それでもまた読む。
「大丈夫?」
小春が心配そうに聞く。
「大丈夫だよ」
六花は笑う。
「ちょっと喉が乾いただけ」
「ほんとに?」
「ほんと」
そう言って、また原稿へ目を落とす。
尚哉は廊下からその様子を見ていた。
別に盗み聞きしていたわけじゃない。
通りかかっただけだ。
何度も。
何度も。
そういうことにしておいた。
◇
大会前日。
放課後の空き教室から、また六花の声が聞こえていた。
「以上で、私の発表を終わります」
最後まで読み切る。
少し間が空く。
ぱちぱち、と小春が拍手した。
「すごい! 絶対いけるよ!」
「ありがとう」
六花は笑った。
けれど、その声は少し掠れていた。
「今日はもう終わりにした方がいいんじゃない?」
「うん、あと一回だけ」
「六花ちゃん…」
「本当にあと一回」
小春は心配そうに言う。
六花は原稿を持ち直す。
そしてまた、最初から読み始めた。
尚哉は廊下の角で足を止める。
「……」
別に自分が口を出すことではない。
本人がやると言っている。
小春もいる。
先生も気にしているだろう。
だから。
そのまま通り過ぎればいい。
尚哉はそう思って、昇降口へ向かった。
◇
その帰り道。
尚哉はコンビニへ寄った。
飲み物を手に取る。
適当にパンも取る。
そのままレジへ向かおうとして。
ふと棚が目に入った。
のど飴。
いくつか並んだ小さな袋の中に、可愛らしい猫が描かれたものがあった。
「……」
尚哉は数秒、それを見た。
六花の掠れた声が頭に浮かぶ。
あと一回だけ。
大丈夫だよ。
そんな言葉も一緒に浮かんだ。
けれど。
だから何だ、という話でもあった。
別に頼まれたわけでもない。
自分が気にすることでもない。
尚哉は棚から視線を外して、そのまま通り過ぎた。
◇
レジへ向かう。
三歩。
四歩。
五歩。
「……」
立ち止まる。
振り返る。
そして、もう一度棚へ戻った。
猫のパッケージののど飴を手に取る。
少しだけ眺める。
「……いや」
小さく呟いた。
何をしているんだろうと思った。
◇
翌日。
六花が一人になったタイミングで、尚哉は声を掛けた。
「白鷺」
「ん?」
六花が振り返る。
「今日、本番だな」
「うん」
六花は少しだけ不安そうに笑った。
「緊張してるか?」
「少しだけ」
「少しだけなんだ」
「割としてるかも」
「正直だな」
六花は笑う。
声がいつもと違う気がする。
尚哉はポケットに手を入れる。
昨日買ったのど飴の袋が、指先に触れた。
「これ」
尚哉はそれを差し出した。
「え?」
「のど飴」
六花は目を瞬く。
差し出された袋を見る。
パッケージには可愛らしい猫。
「……猫だ」
「そこかよ」
「だって、かわいい」
「知らん」
尚哉は少し気まずそうに視線を逸らす。
「声、掠れてるだろ」
「そうかな」
「そうだろ」
「……うん」
六花は小さく頷いた。
「ちょっとだけ」
「なら持っとけ」
「ありがとう」
「別に」
尚哉は短く答える。
それ以上何か言うつもりはなかった。
◇
六花は袋を両手で持ったまま、しばらく猫の絵を見ていた。
ただののど飴だった。
コンビニで売っていそうな。
どこにでもありそうな。
特別なものではない。
けれど。
正直、すぐに開けるのがもったいない気がした。
「橘くん」
「何」
「これ、選んでくれたの?」
尚哉は少しだけ黙る。
そして、視線を逸らしたまま言った。
「……たまたま目に入っただけ」
「そうなんだ」
「そう」
その答えは、いかにも尚哉らしかった。
六花は小さく笑う。
「ありがとう」
「だから別に」
「うん。でも、ありがとう」
六花はとても大切な物を扱うように、鞄にしまった。
◇
放課後。
スピーチ大会は無事に終わった。
結果は優秀賞。
「六花ちゃんすごい!」
小春は自分のことのように喜んでいた。
「本当にすごかったよ!」
「ありがとう」
六花は照れたように笑う。
けれど、流石に声は少し疲れていた。
教室では何人かの生徒が六花を囲んでいる。
「白鷺さん、めっちゃ良かったよ」
「さすが代表」
「緊張しなかった?」
「ちょっとしたよ」
六花は一人一人に笑顔で答えていた。
尚哉は少し離れたところからそれを見る。
相変わらずだと思った。
褒められて。
頼られて。
囲まれて。
それでも笑っている。
笑ってしまう。
◇
帰り道。
一人になってから、六花は鞄の中をそっと見る。
猫のパッケージののど飴。
それがそこにあるだけで、胸の奥が少し温かくなる。
大会で褒められたことより。
代表として評価されたことより。
その小さな袋の方が、なぜかずっと心に残っていた。
白鷺六花は笑った。
喉は確かに少し痛い。
けれど。
今日は、それが嫌じゃなかった。
小さなのど飴の小袋が、鞄の中で微かに音を立てた。




