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第70話 白鷺六花は断れない。

 白鷺六花は、よく頼まれる。


 それは今に始まったことではない。


 先生からも。


 クラスメイトからも。


 後輩からも。


 頼まれれば、六花はだいたい頷いた。


 断る理由を探すよりも。


 引き受ける方法を考える方が、ずっと早かった。


     ◇


「白鷺さん」


 朝のホームルームが終わってすぐ、担任が六花を呼んだ。


「悪いんだけど、この資料、職員室まで持っていってくれる?」


「はい」


 六花はすぐに頷いた。


「助かるよ」


 その言葉に、六花は小さく笑う。


「いえ」


 それだけでよかった。


 誰かの役に立てたなら。


 少しだけ安心できた。


     ◇


 昼休み。


「六花ちゃん、これ分かる?」


 クラスメイトがノートを持ってきた。


「どこ?」


「ここ。先生の説明聞き逃しちゃって」


「ああ、ここはね」


 六花は自分の昼食を一度置いて、ノートを覗き込む。


 説明すると、相手はぱっと顔を明るくした。


「助かったー!」


「よかった」


「六花ちゃんってほんと頼りにしちゃうよ」


 そう言って笑われる。


 六花も笑った。


 それでいいと思った。


     ◇


 放課後。


「白鷺さん、ごめん!」


 今度は委員の仕事だった。


「今日、ちょっと用事できちゃって。掲示物貼るの代わってもらえないかな?」


「うん、いいよ」


「本当? ありがとう!」


「大丈夫」


 自然に出た言葉だった。


 大丈夫。


 平気。


 よく使う言葉。


 自分に言い聞かせるように。


 相手を安心させるように。


 六花は笑った。


     ◇


「六花ちゃん」


 小春が教室の入口から顔を出す。


「まだ帰らないの?」


「うん、これだけ終わらせてから」


 六花は掲示物を抱えていた。


 紙の束。


 画鋲。


 貼る場所のメモ。


 それほど大変な仕事ではない。


 けれど一日いろいろ重なったせいか、少しだけ足が重かった。


「それ、私も手伝うよ」


「大丈夫だよ」


「出た」


「え?」


「六花ちゃんの大丈夫」


 小春は頬を膨らませる。


「大丈夫じゃないやつ」


「そんなことないよ」


「あるよー」


 六花は笑う。


「本当に大丈夫なの?」


「ほんとに?」


「うん」


「じゃあ、無理だったら呼んでね?」


「うん」


 小春はまだ心配そうだったが、誰かに呼ばれて教室を離れていった。


 六花は掲示物を抱え直す。


 大丈夫。


 このくらいなら。


     ◇


 廊下の掲示板に紙を貼っていく。


 一枚。


 また一枚。


 曲がらないように気を付ける。


 画鋲を押し込む指先が少し痛い。


 黙々と作業を進める。


「白鷺」


 声がした。


 振り返ると、尚哉が立っていた。


「あ、橘くん」


「まだ残ってたのか」


「うん。ちょっとだけ」


 六花は笑う。


 尚哉は掲示物を見る。


「それも頼まれたやつ?」


「うん」


「今日、何個目だよ」


「え?」


「頼まれ事」


 六花は少しだけ考える。


 朝の資料。


 昼休みの勉強。


 放課後の掲示物。


 他にも細かいことがいくつかあった気がする。


「……そんなに多くないよ」


「多いだろ」


「そうかな」


「そうだろ」


 尚哉は呆れたように言った。


「お前、今日何回大丈夫って言った?」


「え?」


「数えてないけど、結構言ってる」


 六花は目を瞬く。


「そんなに言ってないよ」


「言ってる」


「言ってない」


「言ってる」


「言ってないって」


「じゃあ今のは?」


「え?」


「大丈夫って顔してる」


「顔?」


 思わず笑ってしまった。


「そんな顔ある?」


「ある」


 尚哉は真面目な顔で言う。


 六花は少しだけ困った。


 変な人だ。


 けれど、全くの冗談にも聞こえなかった。


     ◇


「半分やる」


 尚哉が掲示物を一部取る。


「あ、いいよ」


「またそれか」


「でも」


「俺、暇だし」


「本当?」


「たぶん」


「たぶんって」


 六花は苦笑する。


 尚哉は気にせず、隣の掲示板へ向かった。


 作業は二人でやるとすぐに終わった。


 あっけないくらいに。


 六花は最後の一枚を貼り終えて、小さく息を吐く。


「ありがとう」


「別に」


「助かった」


「だろうな」


「そこは否定しないんだ」


「実際助かっただろ」


「うん」


 六花は素直に頷く。


 確かに助かった。


 一人でもできた。


 でも、二人の方が楽だった。


 それは認めるしかなかった。


     ◇


 廊下を歩きながら、尚哉が言った。


「断ればいいのに」


 六花は少しだけ足を緩める。


「簡単に言うね」


「難しいのか?」


「……どうだろう」


 六花は考える。


 断る。


 その選択肢がないわけではない。


 でも、頼まれた瞬間にはいつも先に頷いている。


 断ったら相手が困るかもしれない。


 自分がやれば済むかもしれない。


 そう思うと、言葉は自然に決まってしまう。


「頼まれたら、断りづらいだけだよ」


「それで疲れてたら意味ないだろ」


「疲れてないよ」


 そう言ってから、六花は少しだけ笑った。


「わたし、また言った?」


「言ったな」


「今のは大丈夫じゃないからセーフでしょ」


「そんなの似たようなもんだろ」


 二人は少しだけ笑った。


     ◇


 昇降口まで来ると、外はもう夕方だった。


 春の空が薄く赤い。


 六花は靴を履き替える。


 立ち上がった瞬間、ほんの少しだけ視界が揺れた。


「……」


 すぐに足に力を入れる。


 何でもない。


 少し疲れただけ。


 尚哉には気付かれていない。


 そう思った。


「白鷺」


 けれど、声がした。


「今、ふらついた?」


「……え?」


「ふらついただろ」


「気のせいだよ」


「気のせいで壁に手つくか?」


 六花は自分の手を見る。


 無意識に壁へ触れていた。


「あ」


 小さく声が漏れる。


 尚哉はため息を吐いた。


「ほら」


「ほらって」


「大丈夫じゃない」


 その言い方があまりにも真っ直ぐで。


 六花は少しだけ言葉に詰まった。


     ◇


「本当に、少し疲れただけだから」


「それを大丈夫じゃないって言うんだろ」


「……そうなのかな」


「そうだろ」


 尚哉は当たり前みたいに言った。


 六花は返せなかった。


 自分の中では、まだ大丈夫だった。


 倒れていない。


 歩ける。


 笑える。


 だから大丈夫。


 そう思っていた。


 けれど尚哉は、そうは思わないらしい。


「今日はもう帰れ」


「うん」


「寄り道もなし」


「お母さんみたい」


「誰がお母さんだ」


 六花は思わず笑った。


 笑うと、少しだけ力が抜けた。


     ◇


 校門の前で別れる。


「また明日」


 六花が言う。


「ああ」


 尚哉は少し間を置いてから、


「明日は断れよ」


 と言った。


「何を?」


「何か頼まれたら」


「明日何か頼まれる前提なんだ」


「大体頼まれるだろ」


「ひどいなぁ」


「事実だ」


 六花は苦笑する。


 でも言い返せなかった。


「努力する」


「弱い」


「じゃあ、なるべく努力する」


「もっと弱くなったぞ」


 六花は笑った。


 尚哉も少しだけ口元を緩める。


「じゃあな」


「うん。また明日」


 尚哉が駅の方へ歩いていく。


 六花はその背中を見送っていた。


     ◇


 一人になってから。


 六花は小さく息を吐いた。


 体が少し重い。


 足も少しだるい。


 それでも、今日もちゃんとやれた。


 誰かの役に立てた。


 だからいい。


 そう思う。


 思うのに。


 尚哉の言葉が耳に残っていた。


 大丈夫じゃない。


 そんなふうに言われたのは、いつぶりだろう。


 六花は胸の奥に残った小さなざわめきを抱えたまま、ゆっくりと歩き出した。


 白鷺六花は断れない。

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