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第67話 一色玲奈は隠している。

 昼休みが終わってすぐだった。


 中庭には春の日差しが降り注いでいる。


 花壇の周りでは何人かの生徒が作業をしていた。


 一色玲奈は文庫本を抱えながら、その横を通り過ぎる。


 図書室へ向かう途中だった。


 いつも通り。


 静かな時間を過ごすつもりだった。


 その時だった。


「あっ!」


 誰かの声が響く。


 次の瞬間。


 大量の水が玲奈の肩から胸元へ降りかかった。


「きゃっ……!」


 思わず小さな悲鳴が漏れる。


 ジョウロを持っていた生徒が青ざめた。


「手が滑って、ご、ごめんなさい!」


 慌てて駆け寄ってくる。


「ほんとごめん!」


 玲奈は一瞬固まった。


 制服はびしょ濡れだった。


 白いシャツは肌に張り付いている。


 水の冷たさはともかく、


 恥ずかしい。


 周囲の視線が集まってくる。


 玲奈は胸が苦しくなる。


「だ、大丈夫です……」


 反射的にそう言った。


「でも……!」


「着替え、ありますし、本当に、大丈夫ですから…」


 玲奈は小さく笑う。


 上手く笑えたか、自信はなかった。


 それでも相手は少し安心したようだった。


「本当にごめんね!」


 何度も謝りながら去っていく。


 周囲の生徒たちも散っていった。


 玲奈はその場に残された。


     ◇


 大丈夫じゃなかった。


 着替えなんて持っていない。


 保健室へ行くにも、この姿のまま歩かなければならない。


 教室へ戻るのも嫌だった。


 誰かに見られるのが怖かった。


 どうしたらいいのか分からない。


 玲奈は腕を抱くようにして俯く。


 目の奥が熱かった。


 涙が出そうになる。


 でも泣きたくなかった。


 泣いたらもっと目立ってしまう。


 玲奈は唇を噛む。


 その時だった。


「一色」


 声がした。


 玲奈は顔を上げる。


 橘尚哉だった。


 同じ学年。


 ちゃんと話した事はないけれど、


 お互い名前くらいは認識している。


 それだけの相手。


「……橘くん」


「…」


 尚哉は玲奈を見る。


 それ以上は何も言わない。


 状況を説明させる気もないらしい。


 ただ自分のジャージを脱いだ。


「着ろ」


 玲奈は目を瞬く。


「え……」


「風邪ひくだろ」


「でも」


「返すのは後でいい」


 それだけだった。


 玲奈は言葉に詰まる。


 断る理由も見つからない。


 助かった。


 本当はすごく助かった。


 でも素直にそう言うのも苦手だった。


「……ありがとう、ございます」


 小さな声で言う。


 尚哉は頷くだけだった。


     ◇


「橘くん?」


 聞き慣れた声がした。


 二人が振り返る。


 白鷺六花だった。


「どうしたの?」


 玲奈を見る。


 濡れた制服。


 尚哉のジャージ。


 少し赤い目元。


 それだけで十分だった。


「ああ」


 尚哉が言う。


「悪い白鷺」


「うん」


「一色、頼めるか」


 六花はすぐに頷いた。


「もちろん」


 そして玲奈へ微笑む。


「一色さん、保健室行こ?」


 その声は優しかった。


 玲奈は少しだけ肩の力が抜ける。


「……はい」


 小さく頷いた。


     ◇


 尚哉はそれを見届ける。


 もう大丈夫だろうと思った。


 だから何も言わずに踵を返す。


「あの、…橘くん」


 後ろから玲奈の声がした。


 尚哉が振り返る。


「ありがとう」


 今度は少しだけはっきり聞こえた。


 尚哉は少し困ったような顔をして、


「別に」


 と言った。


 それだけだった。


     ◇


 六花は去っていく尚哉の背中を見る。


 昨日は自分だった。


 今日は玲奈だった。


 特別な理由なんてない。


 きっと。


 あの人は、困っている人を放っておけないだけなのだ。


 保健室に向かいながら玲奈は考えていた。


 ありがとうが精一杯だった。


 自分を救ってくれた彼は、まるで小説の主人公みたいだった。


 そんな事を思ってしまった自分にふと気づいて、


 少しだけ恥ずかしかった。


 一色玲奈は隠している。

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