第65話 白鷺六花は落としている。
放課後の廊下は騒がしい。
部活動へ向かう生徒。
友達と話しながら帰る生徒。
教室に残っている生徒。
それぞれが一日の終わりを過ごしている。
そんな中で、白鷺六花は両手いっぱいにプリントを抱えていた。
「白鷺さん、ごめんね」
担任が申し訳なさそうに笑う。
「資料室までお願いしてもいいかな」
「はい」
六花は頷いた。
「助かるよ」
そう言われると、断る理由なんてない気がした。
困っている人がいる。
頼まれたことがある。
なら、できるだけ応えたい。
そう思うのは、六花にとって自然なことだった。
◇
廊下を歩く。
プリントの束は思っていたより重かった。
前が少し見えにくい。
けれど、持てないほどではない。
大丈夫。
このくらいなら。
「六花ちゃん、それ大丈夫?手伝うよ。」
横から声がした。
小春だった。
「大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「うん」
「も〜重いって言わない六花ちゃんのばかぁ」
「平気平気」
六花は笑った。
小春はまだ何か言いたそうだったが、後ろから別の女子に呼ばれた。
「小春ー! ちょっと来てー!」
「あ、はーい!」
小春は振り返る。
それから六花を見る。
「ごめん、行くけど無理しちゃだめだよ?」
「してないよ」
「してる人はみんなそう言うんだよ〜」
そう言って、小春は駆けていった。
六花は小さく笑う。
心配性だなと思う。
でも、その心配に甘えるのは少し苦手だった。
◇
階段へ向かう途中だった。
前から数人の生徒が歩いてくる。
六花は少し端へ寄ろうとした。
その時、腕の中のプリントが少しずれた。
「あっ」
一枚。
二枚。
滑り落ちる。
慌てて支えようとしたことで、さらに束が傾いた。
ばさばさ、と音を立ててプリントが床へ散らばる。
「……」
六花は立ち尽くした。
廊下の真ん中。
白い紙。
通り過ぎる生徒の視線。
「あー……」
小さく息を吐く。
やってしまった。
そう思いながら膝をつく。
すぐに拾えばいい。
大丈夫。
このくらいなら。
◇
「大丈夫じゃないじゃん」
声がした。
六花は顔を上げる。
橘尚哉だった。
いつからそこにいたのか分からない。
尚哉は何も言わず、散らばったプリントを拾い始める。
「あ、いいよ」
「何が」
「私が落としたんだし」
「落ちてるんだから拾うんだろ」
淡々とした声だった。
六花は少しだけ瞬きをする。
「……ありがとう」
「別に」
尚哉は短く答える。
そのまま黙ってプリントを集める。
六花も慌てて手を動かした。
廊下を行き交う生徒たちは、少しだけ二人を見てから通り過ぎていく。
拾い終える頃には、六花の腕の中の束はさらに不安定になっていた。
尚哉はそれを見て、眉をひそめる。
「半分」
「え?」
「資料室だろ」
「どうして知ってるの?」
「先生が頼んでるの聞こえた」
「そっか」
六花は小さく笑う。
「でも大丈夫だよ」
「今落としただろ」
「それは……ちょっと滑っただけで」
「じゃあまた滑るかもしれないだろ」
「う」
言い返せなかった。
尚哉は返事を待たずに、束の半分を持ち上げる。
「行くぞ」
「……うん」
六花は少しだけ戸惑いながら頷いた。
◇
二人で廊下を歩く。
プリントの量が半分になっただけで、腕はずいぶん楽になった。
それが少し悔しい。
本当に大丈夫だと思っていたのに。
大丈夫ではなかったのかもしれない。
そう思うと、なんとも落ち着かなかった。
「白鷺」
「なに?」
「何で、全部引き受けるんだ?」
急な質問だった。
六花は隣を見る。
尚哉は前を向いたまま歩いていた。
「全部って?」
「頼まれ事。まあ頼むほうも考えろって話なんだけどな」
「ああ」
六花は少しだけ考える。
考えるまでもない気もした。
「困ってる人がいたら、放っておけないから」
いつもの答え。
自然に出てきた言葉。
すると尚哉は、少し間を置いて言った。
「自分が困ってるじゃん」
「……え?」
「今」
尚哉はプリントを持ったまま続ける。
「見てて思っただけ」
六花は答えられなかった。
自分が困っている。
そんなふうに考えたことはなかった。
頼まれたから引き受ける。
困っている人がいるから手伝う。
それだけだった。
「……別に」
六花は小さく笑う。
「困ってないよ」
「そうか?」
「うん」
「じゃあ何で落としたんだよ」
「それは……」
また言葉に詰まる。
尚哉は責めているわけではなさそうだった。
ただ本当に、疑問に思ったことを言っているだけ。
だから余計に返しづらい。
「橘くんって」
「ん?」
「変なこと言うね」
「そうか?」
「うん」
六花は少しだけ笑った。
「そうだと思う」
尚哉は納得していない顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。
◇
資料室に着くと、六花は先生に言われていた棚へプリントを置いた。
尚哉も隣に束を置く。
重なったプリントの高さを見て、六花は少しだけ苦笑した。
「やっぱり多かったね」
「だろ」
「うん」
素直に認めると、尚哉は意外そうな顔をした。
「素直に認めるんだな」
「なにそれ、私そんなに頑固に見える?」
「へぇ〜」
「何よその反応」
「いや」
尚哉は視線を逸らす。
「何でもない」
少し沈黙が落ちる。
資料室の窓から夕方の光が差し込んでいた。
埃が光の中でゆっくり舞っている。
「ありがとね」
六花は改めて言った。
「助かった」
「別に」
「橘くんって結構優しかったんだね」
そう言うと、尚哉は明らかに困った顔をした。
「そういうのはやめてくれ」
「そういうの?」
「褒められるのとか、苦手なんだよ」
「そうなんだ」
「ああ」
六花は少しだけ笑った。
変な人だと思った。
助けてくれたのに、優しいと言われるのは嫌がる。
心配してくれたのに、それを当たり前みたいに流す。
でも。
悪い人ではない。
少なくとも。
ちゃんと見てくれている人なのだと思った。
◇
資料室を出ると、廊下は少し静かになっていた。
六花は尚哉の隣を歩く。
先ほどより腕が軽い。
けれど胸の奥に、さっきの言葉が残っていた。
自分が困ってるじゃん。
変なことを言う人だな。
そんなふうに思う。
…変だけど、嫌ではなかった。
「じゃあ、私こっちだから」
階段の前で六花は立ち止まる。
「おう」
「今日はありがとう」
「もう落とすなよ」
「努力する」
「そこは落とさないって言えよ」
「じゃあ、なるべく落とさない」
「イマイチ不安な返しだな」
六花は思わず笑った。
尚哉も少しだけ口元を緩める。
「じゃあまた明日」
「うん。また明日」
別れ際。
六花は少しだけ振り返る。
尚哉はもう背を向けて歩いていた。
その背中を見ながら、六花は思う。
橘尚哉は、少し変な人だ。
変だけど、嫌ではなかった。




