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第64話 橘尚哉は慣れている。

 尚哉の家は比較的裕福だった。


 そこそこの家。


 不自由のない生活。


 欲しい物は大抵買ってもらえた。


 勉強しろとうるさく言われたこともない。


 殴られたこともない。


 怒鳴られたこともない。


 両親は優しかった。


 だから。


 何も不満なんてないと思っていた。


     ◇


 小学校の頃。


 授業参観の日だった。


 教室にはたくさんの保護者が来ている。


 友達のお母さん。


 友達のお父さん。


 後ろの方で手を振る人もいる。


 そんな中。


 尚哉の席の後ろだけは空いていた。


「橘くんのお母さん来ないの?」


 隣の席の女子が聞いた。


「仕事」


「そっか」


 それだけだった。


 尚哉も特に気にしなかった。


 いつものことだったから。


 仕事なら仕方ない。


 そう思っていた。


     ◇


 誕生日の日。


 冷蔵庫の中にはケーキが入っていた。


 机の上にはプレゼントも置いてある。


 メッセージカードまで添えられていた。


『誕生日おめでとう』


 ちゃんと祝ってもらっている。


 だから問題はない。


 そう思う。


 思うのだけれど。


 リビングはとても静かだった。


 時計の音だけが聞こえる。


 尚哉は一人でケーキを切った。


 一人で蝋燭を消した。


 一人で食べた。


 広いテーブル。


 向かい側の椅子は空いていた。


 でも。


 別に寂しいとは思わなかった。


 慣れていたから。


     ◇


 中学生になる頃には、一人でいることは当たり前になっていた。


 両親が忙しいことも。


 家に誰もいないことも。


 連絡が遅くなることも。


 全部。


 当たり前だった。


 だから尚哉は困らなかった。


 料理も少し覚えた。


 洗濯もできた。


 買い物もできた。


 自分のことは自分でやる。


 その方が早い。


 その方が楽だった。


 別に誰かを待つ必要もないから。


     ◇


 ある日。


 クラスメイトが教室で困っていた。


「やば……」


 男子生徒が青ざめている。


「どうした?」


「提出物忘れた」


 聞けば、家に置いてきたらしい。


 先生は厳しい。


 このままだと怒られる。


 尚哉は少し考えて。


「…貸そうか」


 と言った。


「え?」


「写すなら早くしろ」


 男子生徒は目を丸くした後、


「マジか!」


 と声を上げた。


 休み時間が終わるまで必死に書き写していた。


 その日の放課後。


「マジで助かった」


 男子生徒が頭を下げた。


「ありがとう」


 尚哉は少しだけ困った。


 大したことはしていない。


 そう思ったから。


「別に」


 適当に答える。


 でも。


 男子生徒は本当に嬉しそうだった。


     ◇


 その日。


 家へ帰る途中。


 尚哉はふと思った。


 人に感謝されるのは悪くない。


 褒められるのは苦手だけど。


 役に立てるのは嫌じゃない。


 困っている人がいるなら助けたい。


 その方がいい。


 理由は分からなかった。


 ただ。


 そうしている時だけは。


 少しだけ、自分が必要な人間になれた気がした。


     ◇


 春の教室。


 窓際の席。


 頼まれ事を断らない少女。


 誰かのために動くことが当たり前みたいな少女。


 尚哉はまだ知らない。


 彼女がどんなものを抱えているのか。


 なぜ笑っているのか。


 何も知らない。


 そんな彼女が、


 少しだけ気になった。


 理由も分からない。


 ただ。


 どこか…似ている気がした。


 橘尚哉は慣れている。

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