第63話 白鷺六花は生き残っている。
「お姉ちゃ〜ん!」
昔の六花は、よく泣く子どもだった。
知らない人の前では俯いてしまって話せない。
大きな声を出されるとすぐに驚いて。
友達の輪に入るのも苦手で。
何かを聞かれても、オドオドしてすぐに答えられなかった。
そんな六花がいつも隠れていたのは、姉の後ろだった。
◇
「六花、大丈夫だよ」
姉の三海は、いつもそう言って笑った。
白鷺三海。
六花より三つ年上の姉。
明るくて。
優しくて。
誰とでもすぐに仲良くなれて。
困っている人を見つけると、迷わず手を伸ばせる人だった。
六花にとって、三海は特別だった。
お母さんに褒められる三海。
先生に頼られる三海。
友達に囲まれて笑う三海。
その背中はいつも眩しくて。
六花には少し眩しすぎて。
それでも、誰よりも大好きで誇れる姉だった。
「ほら、行こ」
三海が手を差し出す。
六花はその手を握る。
「……うん」
三海がいれば安心できた。
姉の後ろにいれば大丈夫だった。
三海が笑えば、周りも笑った。
三海が話せば、みんなが頷いた。
三海が手を引いてくれれば、六花も少しだけ前に進めた。
だから六花は、いつも思っていた。
お姉ちゃんみたいにいつかなれたらいいのに。
そうすればきっと。
怖いものなんて、なくなるのに。
◇
夏の海は、青かった。
日差しが眩しくて。
波の音が大きくて。
砂浜は熱くて。
三海は楽しそうに笑っていた。
「六花、こっち!」
「待って、お姉ちゃん」
「大丈夫。手、離さないから」
三海はそう言って、六花の手を握った。
その手は温かかった。
六花は少し怖かったけれど、三海がいるなら大丈夫だと思った。
お姉ちゃんがいる。
だから大丈夫。
そう思った。
その後のことを、六花はあまり覚えていない。
ただ。
波の音が急に遠くなったこと。
誰かの叫び声がしたこと。
握っていた手が離れたこと。
水が冷たかったこと。
息が苦しかったこと。
伸ばした手が、何も掴めなかったこと。
それだけは、今でも覚えている。
◇
目を覚ました時、六花は病院のベッドの上にいた。
白い天井。
消毒液の匂い。
腕に繋がれた管。
泣いている母。
俯いている父。
六花はぼんやりと周囲を見回した。
「……お姉ちゃんは?」
誰もすぐには答えなかった。
母が口元を押さえる。
父が何かを言おうとして、やめる。
その沈黙だけで。
六花は何か取り返しのつかない事が起きてしまったのだと分かった。
「ねえ、お姉ちゃんは?」
もう一度聞いた。
今度は声が震えた。
答えは返ってこない。
返ってこなかった。
◇
家の中は、静かになった。
三海がいない。
三海の足音がしない。
三海が六花の名前を呼ぶ声がしない。
それが無いだけで、
家は全く別の場所みたいだった。
大人たちは優しかった。
誰も六花を責めなかった。
母も父も、親戚も、近所の人も。
「六花ちゃんが無事でよかった」
そう言ってくれた。
優しい言葉だった。
優しいはずだった。
でも六花には、その言葉を上手く受け取れなかった。
どうして。
そう思ってしまった。
どうして、私だったんだろう。
どうして、お姉ちゃんじゃなかったんだろう。
何度考えても答えは出なかった。
泣き虫で。
何もできなくて。
すぐに怖がって。
いつも姉の後ろに隠れていた自分が生き残って。
明るくて。
優しくて。
誰からも好かれて。
みんなに必要とされていた姉がいなくなった。
それがどうしても分からなかった。
分からないまま、六花は生きていた。
◇
三海の部屋は、しばらくそのままだった。
机の上には、使いかけのノート。
本棚には、読みかけの本。
椅子の背には、脱いだままの上着。
まるで今にも三海が帰ってきて、
「六花、何してるの?」
と笑いながら言いそうだった。
六花は部屋の入口に立っていた。
入っていいのか分からなかった。
でも、離れられなかった。
机の上に置かれた写真立てを見る。
写真の中の三海は笑っている。
その隣で、幼い六花は少し困った顔をしていた。
六花はゆっくりと写真へ近付く。
指先で、三海の笑顔に触れた。
「……お姉ちゃんなら」
小さく呟く。
お姉ちゃんなら。
もっと上手く笑えた。
もっと上手く話せた。
もっとみんなを安心させられた。
きっと、お母さんもお父さんも。
こんなに悲しませなかった。
六花は写真を見つめる。
涙は出なかった。
もう何度も何度も泣いたから。
その代わりに。
胸の奥に、ひとつ感情が取り残されていた。
「…私が」
声が震える。
「お姉ちゃんにならなきゃ」
◇
それからの六花は、変わっていった。
泣かないようにした。
俯かないようにした。
人に話しかけられたら、笑うようにした。
頼まれたことは、なるべく断らないようにした。
困っている人がいたら、気付けるようにした。
明るく。
優しく。
頼られる人に。
三海ならきっと、そうしたから。
三海ならきっと、誰かを悲しませたりしないから。
最初は上手くいかなかった。
笑顔が引きつることもあった。
声が小さくなることもあった。
帰ってから一人で泣くこともあった。
それでも続けた。
少しずつ。
本当に少しずつ。
白鷺六花は変わっていった。
周りは言った。
「六花ちゃん、明るくなったね」
「しっかりしたね」
「三海ちゃんに似てきたね」
そのたびに六花は笑った。
「ありがとうございます」
そう答えた。
褒められているはずなのに。
胸の奥は、空虚なままだった。
それでも。
それでいいと思った。
お姉ちゃんになれているなら。
少しでも近づけているなら。
きっと、自分が生き残った意味もあるのだと。
ずっとそう思っていた。
◇
春の教室。
頼まれたことに笑顔で頷く。
誰かに呼ばれれば振り向く。
困っている人がいれば手を伸ばす。
白鷺六花は、そういう女の子になった。
明るくて。
優しくて。
誰とでも話せて。
先生からも、友達からも頼られる。
そんな女の子になった。
けれど。
その笑顔の奥に、今でも消えない声がある。
どうして、私だったんだろう。
どうして、お姉ちゃんじゃなかったんだろう。
答えはまだ出ない。
たぶん、これからも出ない。
それでも六花は笑う。
笑っていれば、誰も心配しないから。
大丈夫と言えば、誰も立ち止まらないから。
平気だと言えば、少しだけ三海に近づける気がしたから。
白鷺六花は生き残っている。




