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第62話 尚哉と六花は出会う。

 春は…嫌いじゃない。


 新しいクラス。


 新しい教科書。


 新しい担任。


 何かが始まるような空気は、少しだけ気分を軽くしてくれる。


 もっとも、その「何か」が実際に始まったことなんて、今までほとんどなかったけれど。


 窓際の席から校庭を眺めながら、橘尚哉は小さく欠伸をした。


 ホームルーム開始まであと少し。


 教室の中は、すでにあちこちで話し声が飛び交っている。


 新しいクラスになっても、結局やることは変わらない。


 知っている顔を見つけて騒ぐやつ。


 席が近いだけで急に仲良くなろうとするやつ。


 担任が誰かで一喜一憂するやつ。


 それぞれが勝手に春を始めている。


 尚哉はその様子をぼんやり眺めていた。


「なあ橘」


 隣から声がした。


 灰原陸だった。


「今年も同じクラスだな」


「そうだな」


「反応うっす」


「濃い反応が欲しいなら別のやつに話しかけてくれ」


「冷てぇなぁ」


 灰原は笑いながら、近くの席に腰を下ろした。


「でもまあ、知ってるやついると気楽でいいわ」


「お前は誰とでも気楽だろ」


「それは才能かもな」


「便利な才能だな」


「褒めてる?」


「褒めてない」


 灰原は楽しそうに笑った。


 尚哉は軽く息を吐き、もう一度教室へ視線を戻す。


 その時だった。


「六花ー! ごめん、これ手伝ってくれない?」


 教室の前方で、女子の声がする。


 尚哉は何となくそちらを見る。


 声を掛けられた女子生徒が、少しだけ振り返る。


 長い黒髪。


 整った顔立ち。


 特別目立つ格好をしているわけでもないのに、自然と目を引く。


 白鷺六花。


 名前くらいは知っていた。


 去年も何度か見かけたことがある。


 成績が良くて、先生からの信頼も厚くて、誰にでも笑顔で接する優等生。


 そんな評判だった気がする。


「うん、いいよ」


 六花は迷わず答えた。


「助かるー!」


 女子は嬉しそうに笑う。


 すると今度は別の生徒が声を掛ける。


「白鷺さん、これもお願いしていい?」


「うん」


「あとこっちも」


「わかった」


 あっという間に頼まれ事が増えていく。


 六花はその一つ一つに頷いていた。


 断る気配はない。


 困った顔もしない。


 それが当たり前みたいに。


「白鷺ってすげえよな」


 灰原が感心したように言った。


「何が」


「あれ全部引き受けんの普通にすごくない?」


「まあ」


 尚哉は曖昧に答える。


 すごい。


 確かにそうなのかもしれない。


 でも、尚哉には少しだけ違うものに見えた。


 何でも引き受ける人。


 断らない人。


 頼られる人。


 そういう言葉で片付けるには、少しだけ引っ掛かる。


 けれどその理由までは分からなかった。


「しっかし美人だよなぁ」


 灰原が呟く。


「急に何だよ」


「いや、見たままの感想」


「本人にも言うつもりか?」


「言わねえよ。俺にも常識はある」


「微妙に信用できない」


「それってひどくない?」


 灰原が笑う。


 尚哉は返事をしなかった。


 六花は頼まれたプリントを受け取りながら、近くの女子と笑っている。


 その笑顔は自然に見えた。


     ◇


「六花ちゃ〜ん!」


 明るい声が教室に響いた。


 朝比奈小春だった。


 元気で、小柄で、よく笑う女子。


 六花と一緒にいる事が多いようだ。


「また何でも引き受けてる〜」


「そんなことないよ」


「あるよー」


「ないない」


「絶対ある〜」


 二人のやり取りに周囲が笑う。


 六花も困ったように笑っていた。


 いつもの光景なのだろう。


 尚哉はそう思った。


 まだ同じクラスになったばかりなのに、そこだけはもう完成しているように見える。


 白鷺六花は頼られる。


 そういう形。


 尚哉には、少しだけ眩しかった。


「おーい、席着けー」


 担任が教室へ入ってきた。


 ざわついていた教室が少しずつ落ち着いていく。


 灰原も自分の席へ戻った。


 六花も小春に何か言われながら席へ向かう。


 その途中で。


 一瞬だけ。


 六花と目が合った。


「……」


 ほんの一秒にも満たない。


 六花は軽く会釈した。


 尚哉も反射的に小さく頷く。


 それだけだった。


 何かが始まるような予感なんて、なかった。


 特別な音楽が鳴るわけでもない。


 時間が止まるわけでもない。


 ただ新しいクラスの朝に、少しだけ視線が重なった。


 それだけ。


 尚哉は窓の外へ目を向ける。


 校庭の桜が、風に揺れていた。


     ◇


 ホームルームが終わると、教室はまた騒がしくなった。


 自己紹介。


 委員決め。


 配布物。


 新学期特有の雑多な用事が次々と流れていく。


 尚哉は必要最低限だけこなしながら、何となく一日を過ごしていた。


 その間にも、六花は何度も呼ばれていた。


「白鷺さん、これ分かる?」


「六花、先生に聞いてきてくれない?」


「ごめん、これ一緒に見てくれる?」


 そのたびに六花は笑う。


 頷く。


 引き受ける。


 尚哉はそれを、気付くと目で追っていた。


 別に興味があるわけじゃない。


 ただ、少し気になっただけだ。


 よく疲れないな。


 そんな程度の感想だった。


     ◇


 放課後。


 部活動へ向かう生徒たちの声が廊下に響いていた。


 尚哉は鞄を肩に掛けて教室を出る。


 特に寄る場所もない。


 用事もない。


 今日が終わって、明日になる。


 それだけ。


 校門へ向かう途中、前方に六花の姿が見えた。


 両手にはプリントの束。


 その横で小春が心配そうに顔を覗き込んでいる。


「六花ちゃん、それ多くない?」


「大丈夫だよ」


「絶対大丈夫じゃないって」


「平気平気」


 六花は笑っていた。


 尚哉は少しだけ足を止める。


 大丈夫。


 平気。


 その言葉が、やけに軽く聞こえた。


「……」


 別に、自分が何かすることでもない。


 そう思って歩き出そうとした時。


 六花の腕の中から、一枚のプリントが滑り落ちた。


 ひらりと風に乗って、尚哉の足元まで飛んでくる。


 尚哉はそれを拾い上げた。


「あ」


 六花が気付く。


「ごめんなさい」


「いや」


 尚哉はプリントを差し出す。


「落ちた」


「ありがとう」


 六花は受け取って、小さく笑った。


 近くで見ると、思っていたよりも少し疲れた表情をしていた。


 でも。


 笑っていた。


「それ、持てるのか?」


 思わず聞いていた。


 六花は少しだけ目を瞬く。


 そして、いつものように笑う。


「大丈夫だよ」


 尚哉はその笑顔を見た。


 何か言おうとして。


 やめた。


「……そうか」


「うん」


 六花は頷く。


「ありがとう、橘くん」


 名前を呼ばれて、尚哉は少しだけ驚いた。


「俺の名前、知ってたのか」


「そりゃ同じクラスだもん」


「まあ、そうだけど」


 六花は小さく笑う。


 尚哉は視線を逸らした。


「じゃあ」


「うん。また明日」


 六花はプリントを抱え直して歩いていく。


 小春が隣で何か言っている。


 六花は笑って答えていた。


 尚哉はその背中を少しだけ見送った。


 よく人の手伝いをしているやつ。


 最初は、そんな印象だった。


 ただ。


 なぜか少しだけ。


 その笑顔が気になった。


 尚哉と六花は出会う。

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