第56話 橘尚哉はなかなか渡せない。
朝。
尚哉は家を出る前に机の上を見た。
小さなのど飴。
昨日コンビニで買ったものだ。
「……」
それを数秒見つめる。
そして無言でポケットへ入れた。
別に大した理由はない。
…多分。
◇
教室へ入る。
六花はすでに席に着いていた。
小春と何か話している。
いつも通りに笑っていた。
尚哉はポケットの中を意識する。
のど飴。
今なら渡せる気がした。
と思った矢先。
「六花ちゃん聞いて聞いてー!」
小春が勢いよく話し始める。
…無理だった。
尚哉は何事もなかったように自分の席へ向かう。
「おはよー橘くん」
「おう」
小春が手を振る。
六花も軽く会釈した。
結局。
そのままホームルームが始まった。
◇
一時間目と二時間目の間。
今なら。
そう思った。
だが六花は女子に囲まれていた。
「白鷺さんこれ教えてー」
「うん」
「ありがとう!」
…やっぱり無理だった。
◇
三時間目の後。
今度こそ。
だが担任に呼び止められていた。
「白鷺、説明会の件なんだけど」
「はい」
…完全に無理だった。
◇
四時間目終了。
昼休みになった。
尚哉は小さくため息を吐いた。
「どうした?」
灰原が聞いてくる。
「いや、別に」
「なんか朝から変だぞ」
「気のせいだ」
「そうか?」
「そうだ」
そう答えながら。
尚哉はポケットの存在を意識していた。
なんなんだこれは。
渡すだけだろ。
たかがのど飴だ。
それなのに。
妙にタイミングを考えてしまう。
考えれば考えるほど面倒になる。
「あー……」
思わず声が漏れた。
そして。
尚哉は考えるのをやめた。
◇
昼休み。
説明会二日目。
六花は保護者対応を終えて教室へ戻ってきた。
席に着こうとしたところで。
「あー、あのさ」
声がした。
振り向く。
尚哉だった。
「橘くん?」
尚哉は左下へ視線を逸らす。
そしてポケットから小さな袋を取り出す。
「これ」
「ん?」
差し出されたのはのど飴だった。
小さな袋の可愛らしいパッケージ。
六花は思わず瞬きをする。
「どうしたの?」
「ちょっと、間違えて買ったから」
「間違えて?」
「間違えて」
差し出されたのど飴を受け取って、
六花は袋を見る。
可愛い猫のイラスト。
どう考えても男子が間違えて買うようなものには見えない。
「…そうなんだ」
「そう」
「……」
「……」
少しだけ沈黙が落ちる。
尚哉は気まずそうだった。
六花は少しだけ笑う。
「ありがとう」
「いや、別に」
尚哉はそれだけ言うと踵を返した。
「あっ」
六花が声をかける。
尚哉が振り向く。
「なに?」
「その……」
六花は小さく袋を持ち上げた。
「可愛いね」
尚哉は数秒固まった。
「そうか?」
「うん」
「そうかもな」
ぶっきらぼうに答える。
そして。
「じゃ」
逃げるように教室を出ていった。
尚哉が去って、手元を見る…
六花は顔を赤くして思わず口元を覆った。
◇
午後。
説明会はまだ続いていた。
六花は案内をしながら保護者へ説明を続ける。
「こちらになります」
自然と声が出る。
昨日より少しだけ楽だった。
理由は分からない。
ただ。
ポケットの中には小さなのど飴があった。
◇
放課後。
「六花ちゃ〜ん」
小春が不意に声をかけた。
「ん?」
「なんか今日嬉しそうだね」
「え?」
六花の視線が泳ぐ。
「そうかな?」
「そうだよ〜」
小春はじっと顔を覗き込む。
「なんかいいことあった?」
「別に」
「なんか怪しい〜」
「怪しくないよ」
そう言いながら。
六花の視線は一瞬だけ鞄へ向いた。
小春は見逃さなかった。
「絶対なんかある!」
「ないってば」
六花は笑う。
小春も笑う。
そのやり取りはいつも通りだった。
その日の帰り道。
六花は鞄の中から小さなのど飴を取り出した。
猫のイラスト。
可愛らしいパッケージ。
「……間違えて」
小さく呟く。
そして。
白鷺六花は声を出さずに笑った。




