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第52話 白鷺六花は期待しない。

 春は嫌いじゃない。


 校門へ続く坂道を歩きながら、白鷺六花は空を見上げた。


 柔らかな風。


 咲き始めた桜。


 新しい制服。


 新しい教室。


 何かが始まりそうな季節。


 そう思っていた。


 …ずっと前は。


 いつもの教室の前で足を止める。


 扉の向こうから聞こえてくる話し声。


 笑い声。


 机を引く音。


 友達を呼ぶ声。


 聞き慣れた朝の教室だった。


 六花は小さく息を吐く。


 そして扉を開いた。


 視線が自然と教室の奥へ向かう。


 窓際の席。


 そこに彼はいた。


 頬杖をつきながら窓の外を眺めている。


 特別なことは何もない。


 彼はただ座っているだけ。


 それだけなのに。


 六花は一瞬だけ目を閉じた。


 …橘尚哉は生きている。


 本当なら。


 それだけで十分なはずだった。


 また会えた。


 また話せる。


 また同じ時間を過ごせる。


 それだけで。


 それだけで良かったはずなのに。


 胸の奥は不思議なくらい静かだった。


 何度も繰り返した。


 何度も喜んだ。


 何度も願った。


 そして、そのたびに失った。


 だから…もう期待しない。


 期待してしまうと、その先が辛いことを嫌と言うほど知っているから。


「六花ちゃんー!」


 元気な声が飛んできた。


 振り向けば小春が大きく手を振っている。


「おはよー!」


「おはよう」


 自然と笑顔を作る。


 小春は心配そうに言う。


「どうしたの?」


「え?」


「なんかちょっと疲れてる?」


「そうかな」


「そうだよー」


 小春はじっと六花の顔を覗き込む。


「夜更かし?」


「…ちょっとだけ」


「ゲーム?」


「違う」


「漫画?」


「違うよ」


「恋のお悩み?」


「違うってば」


 思わず笑った。


 小春も笑う。


 周囲もつられて笑う。


 いつも通りだった。


 ちゃんと笑えている。


 誰から見ても。


 きっと普通に。


     ◇


「六花ー! ごめん! これ手伝ってくれない?」


 女子生徒が駆け寄ってくる。


 両手にはプリントの束。


 六花はそれを見て、小さく頷いた。


「いいよ」


「助かるー!」


 女子生徒は嬉しそうに笑う。


 すると今度は別の女子がやってくる。


「白鷺さん、これもお願いしていい?」


「うん」


「あとこっちも」


「わかった」


 さらに別の声。


「これ運ぶの手伝ってほしいんだけど」


「いいよ」


 次々と頼まれ事が増えていく。


 六花はいつも通り受け入れた。


「六花、また何でも引き受けてる〜」


 小春が呆れたように言う。


「そんなことないよ」


「あるよ〜」


「ないない」


「絶対ある〜」


 周囲から笑い声が上がる。


 六花も困ったように笑った。


 何も変わらない。


 いつも通り。


 そうしていれば大丈夫だった。


 そうしていれば誰も心配しない。


 誰も気付かない。


「……」


 ふと。


 視線を感じた。


 教室の奥。


 窓際。


 尚哉がこちらを見ていた。


 本当に一瞬だけだった。


 目が合う。


 尚哉は少しだけ不思議そうな顔をした。


 まるで何かが引っ掛かっているような。


 そんな顔。


 だが次の瞬間には視線を逸らした。


 六花も何も言わない。


 ただ。


 胸の奥が少しだけチクっと痛んだ。


     ◇


 予鈴が鳴る。


 生徒たちが慌ただしく席へ戻っていく。


 担任が教室へ入ってきた。


 新しい一年。


 新しい始まり。


 周囲はそう思っている。


 けれど六花だけは知っていた。


 これは始まりではない。


 終わりへ向かう途中だ。


 何度も何度も見てきた景色。


 何度も失った未来。


 そして。


 何度繰り返しても変わらずそこにいる彼。


 六花は前を向く。


 笑顔のまま。


 誰にも気付かれないように。


 白鷺六花は期待しない。

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