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第37話 一色玲奈は笑えている。

 昨日のことを思い出す。


 図書室。


 屋上。


 泣いてしまったこと。


 橘尚哉の言葉。


 今思い返しても、少しだけ恥ずかしい。


 だけど。


 あんな風に誰かに話を聞いてもらったのは初めてだった。


 あんな風に。


 「大丈夫」と言ってもらえたのも初めてだった気がする。


 わたし、本当に救われた。


 少しだけ前を向けた。


 ……と思う。


 けれど。


 一晩眠ったからといって、人は急には変われない。


 朝起きて。


 制服に着替えて。


 学校へ来て。


 教室に入って。


 やっぱり少し緊張した。


 結局。


 昼休みになると、いつものように図書室へ向かっていた。


     ◇


 図書室は静かだった。


 窓際の席に座り、本を開く。


 紙をめくる音だけが響く。


 落ち着く。


 やっぱりここが好きなんだと思う。


 しばらくして。


 扉が開く音がした。


 顔を上げる。


「あ……」


 思わず声が漏れる。


 入ってきたのは尚哉だった。


「よう」


「こんにちは……」


 玲奈は小さく頭を下げた。


 尚哉はいつもの調子だった。


 それが少しだけ嬉しい。


 昨日のことがあったから。


 少し気まずくなるかもしれないと思っていた。


 でも。


 そんなことはなかった。


「相変わらず本読んでるな」


「図書室なので……」


「それもそうか」


 尚哉が少し笑う。


 玲奈もつられて笑った。


 昨日までなら。


 こんな風に笑えなかった気がする。


     ◇


「あれ?」


 聞き覚えのある声がした。


 振り返る。


「二人ともいたんだ」


 白鷺六花だった。


 いつも通りの笑顔。


 明るい声。


 自然な仕草。


 誰とでも仲良くなれる人。


 玲奈には少し眩しく見える。


「こんにちは」


「こんにちは、一色さん」


 六花は嬉しそうに笑った。


「最近よく図書室来てるよね」


「本が好きなので……」


「わかるなぁ」


 六花は頷く。


「私も本読むの好きだよ」


 三人で話す。


 本の話。


 授業の話。


 先生の話。


 他愛のない話だった。


 その時間が、とても楽しい。


 玲奈も少しずつ会話に混ざる。


 尚哉も話す。


 六花も笑う。


 昨日までなら想像できなかった時間だった。


     ◇


 話している途中。


 玲奈はふと気付いた。


 六花はよく笑う。


 よく気遣う。


 会話が止まりそうになると自然に話題を出す。


 誰かが困っていれば助けてくれる。


 本当に優しくて素敵な人だと思う。


 だけど、時々。


 本当に一瞬だけ表情が消える。


 窓の外を見た時。


 話の切れ目。


 誰も見ていないと思った瞬間。


 ほんの一瞬、


 気持ちが沈んでいるように見えた。


「……?」


 玲奈は心の中で首を傾げる。


 気のせいだろうか。


 次の瞬間には。


 六花はまた笑っていた。


 いつものように。


 明るく。


 優しく。


 何事もなかったように。


     ◇


 しばらくして。


 玲奈は本を戻しに席を立った。


 本棚の前で手を伸ばす。


 その時。


 ふと二人の姿が目に入った。


 尚哉と六花。


 二人は何か話していた。


 六花が笑う。


 尚哉が少し呆れた顔をする。


 でも。


 どこか楽しそうだった。


 玲奈は少しだけ思う。


 ああいう関係っていいな、と。


 少しだけ…羨ましい。


 そう思って。


 それから。


 もう一度六花を見る。


 笑っている。


 いつものように。


 何も変わらないように。


 なのに。


 なぜだろう。


 少し寂しそうに見える。


 気のせいかもしれない。


 本当に。


 気のせいなのかもしれない。


 そう言い聞かせようとするが、


 どうしても、そうは思えなかった。


     ◇


 図書室を出る時。


 玲奈は少しだけ振り返った。


 昨日までとは違う。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 世界が変わった気がする。


 まだ怖いことはある。


 まだ不安もある。


 でも。


 今日の自分は。


 昨日の自分より少しだけ前を向けている。


 …そんな気がした。

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