第35話 朝比奈小春はまた財布を忘れる。
朝のホームルームが始まる直前になっても、朝比奈小春の財布は見つからなかった。
「うぅ〜……」
小春は机に突っ伏した。
「終わったぁ……」
「大袈裟だろ」
尚哉が言う。
「大袈裟じゃないもん〜……」
小春は顔だけこちらへ向けた。
「今日のお昼代も入ってるし〜……」
「いくら入ってたんだよ」
「千七百八十円」
「微妙だな」
「微妙じゃない!」
机を叩く。
「わたしには大金!」
その勢いに周囲が笑った。
六花も肩を震わせている。
「笑わないでよ〜」
「ごめんごめん」
六花は苦笑した。
「きっとすぐ見つかると思うよ」
小春が顔を上げる。
「根拠は?」
六花は少しだけ考えて。
「なんとなく」
そう答えた。
「適当だ〜」
「適当じゃないよ」
六花は笑う。
その笑顔を見ながら、尚哉はふと首を傾げた。
どこかで。
こんなやりとりをした気がした。
何を見て、そう思ったのかは分からない。
ただ。
胸の奥に小さな違和感だけが残った。
「おーい」
灰原が後ろから現れる。
「財布なくしたんだって?」
「そうなの〜……」
「かわいそうに」
「でしょ?」
「俺なら泣く」
「もう泣いてる〜」
「じゃあ一緒に泣こう」
「なんでやねん」
小春が即座に突っ込む。
教室に笑いが広がった。
灰原は満足そうに頷いた。
「よし」
「何がよしなの」
「場が和んだ」
「自分で言うな〜」
小春が呆れた顔をする。
そんな何気ないやり取りを見ながら。
尚哉は小さく息を吐いた。
いつも通りの朝。
そのはずだった。
◇
昼休み。
結局財布は見つからなかった。
「放課後探しに行こう」
六花が言う。
「コンビニとスーパーと本屋でしょ?」
「うん〜……」
「じゃあ一緒に回ろう」
「神〜……」
「大袈裟」
「六花たんまじ神」
「やめて」
苦笑する六花。
小春は本気で拝み始めた。
「じゃあ俺も行くか」
尚哉が言う。
「橘くんも?」
小春が目を丸くする。
「どうせ暇だから」
「それ言われるとなんか複雑〜」
小春が抗議する。
六花は小さく笑った。
「ありがとう」
「いや、別に」
尚哉は肩をすくめる。
その時。
ふと六花と目が合った。
一瞬だけ。
六花は少し驚いたような顔をして。
それから微笑んだ。
どこか安心したような。
そんな笑顔だった。
尚哉は不思議に思う。
理由は分からない。
けれど。
その表情を見た瞬間。
胸の奥が少しだけざわついたからだ。
◇
放課後。
「よ〜し、捜索隊出動だよ〜」
小春が拳を突き上げる。
「元気だな」
尚哉が呆れたように言う。
「元気出さないとやってられないもん〜」
「それもそうか」
灰原が頷いた。
「じゃあまずはコンビニだな」
「昨日、最後に寄ったのそこだしね」
六花が言う。
四人は学校を出た。
夕方の街はどこか柔らかい風が吹いている。
部活帰りの生徒。
買い物帰りの主婦。
仕事を終えたサラリーマン。
人の流れに混じりながら歩いていく。
「そういえばさ〜」
小春が尚哉を見る。
「橘くんって放課後なにしてるの?」
「帰ってる」
「それは知ってる〜」
「じゃあ聞くな」
「趣味とかないの?」
「特に」
「え〜つまんな〜い」
灰原も少し呆れながら、
「お前な」
「もっとこう、ギターとか」
「やってない」
「バンドとか」
「やってない」
「秘密組織とか」
「やってない」
「うーん残念」
「何がだよ」
灰原が吹き出した。
「秘密組織はちょっと見てみたくね?」
「わたしも見てみたい」
六花まで乗っかる。
尚哉はため息をついた。
「お前ら……」
そんなやり取りをしているうちに。
目的地のコンビニへ到着した。
「すみません」
六花が店員へ声をかける。
「昨日、財布の忘れ物ってありませんでしたか?」
店員は少し考え。
「ああ」
と頷いた。
「ありますよ」
一瞬。
全員の動きが止まる。
「え?」
小春が固まった。
「あります」
店員はもう一度言った。
「黒い財布ですよね?」
「そそそ、それですぅぅぅぅ!」
小春が叫ぶ。
数分後。
財布を受け取った小春は胸に抱きしめていた。
「ふぇ〜ん、よかったよぅ〜……」
本気で泣きそうになっている。
「千七百八十円の生還だな」
灰原が言う。
「命の恩人みたいに言わないで」
六花が苦笑する。
「でも本当に良かったね」
「うん〜……」
小春は何度も頷いた。
四人の間に笑いが広がる。
その光景を見ながら。
尚哉は少しだけ足を止めた。
胸の奥が妙にざわつく。
財布が見つかったからだろうか。
それは違う。
なら何なのか。
それは分からない。
分からないまま。
夕暮れの風だけが静かに吹き抜けていった。




