第34話 橘尚哉は生きている。
春は…嫌いじゃない。
校門へ続く坂道を歩きながら、白鷺六花は空を見上げた。
柔らかな風と咲き始めた桜。
新しい制服に身を包んだ生徒たち。
何かが始まりそうな季節。
今もそう思っている。
教室の前で足を止める。
扉の向こうから話し声が聞こえてきた。
楽しそうな笑い声。
誰かが机を引く音。
聞き慣れた朝の教室。
六花は小さく息を吐いた。
そして扉を開く。
視線が自然と教室の奥へ向かう。
窓際の席。
そこに彼はいた。
頬杖をつきながら窓の外を眺めている。
特別なことは何もしていない。
ただ座っているだけ。
それなのに。
六花はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「六花ー!」
元気な声が飛んでくる。
振り向けば小春が大きく手を振っていた。
「おはよー!」
「おはよう」
自然と笑みがこぼれる。
小春はそれだけで満足そうだった。
六花が席へ向かおうとした時だった。
「六花ー! ごめん! これ手伝ってくれない?」
女子生徒が駆け寄ってくる。
両手にはプリントの束。
六花は思わず瞬きをした。
「六花?」
「あ、ううん」
首を振る。
「いいよ」
「助かるー!」
女子生徒は嬉しそうに笑った。
すると今度は別の女子がやってくる。
「白鷺さん、これもお願いしていい?」
「うん」
「あと文化祭アンケートも」
「わかった」
気付けば周りに何人か集まっていた。
「六花、また何でも引き受けてる〜」
小春が呆れたように言う。
「そんなことないよ」
「あるよ〜」
「ないない」
「絶対ある〜」
周囲から笑い声が上がる。
六花も困ったように笑った。
いつも通りの朝。
いつも通りの教室。
それは、見慣れた景色。
「しっかり見てんなぁ」
ふいに聞こえた声に、六花は顔を上げる。
灰原陸。
その隣には尚哉がいた。
「何が」
「白鷺」
「見てねえよ」
「見てた」
「見てない」
「見てた」
「うるさい」
灰原が声を上げて笑う。
「いやー、春だねぇ」
「黙れ」
「青春だねぇ」
「いいから黙れ」
周囲からも笑い声が上がった。
六花は思わず視線を向ける。
その瞬間。
尚哉と目が合った。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
尚哉は少しだけ気まずそうに目を逸らした。
六花は何も言わない。
ただ。
その何でもないやり取りが少しだけ懐かしくて。
少しだけ嬉しかった。
予鈴が鳴る。
生徒たちが慌ただしく席へ戻っていく。
担任が教室へ入ってきた。
「おーい灰原、席着けー」
「へいへーい」
気の抜けた返事。
変わらない日常。
六花は窓際へ目を向ける。
尚哉は灰原と何か話していた。
その横顔を見ていると。
胸の奥が少しだけ温かくなった。
理由はいらない。
そのままでよかった。
ただ。
今はそれだけで十分だった。
橘尚哉は生きている。




