第32話 橘尚哉は追いかけている。
「灰原!!」
尚哉の叫び声が響く。
「ちょっと待て!」
尚哉も駆け出そうとした。
◇
「橘くん!」
後ろから六花の声がした。
振り向く。
六花の顔は真っ青だった。
「絶対行っちゃダメ!」
その声は悲鳴に近かった。
尚哉は一瞬だけ足を止める。
だが。
「灰原がいっちまった」
それだけ言った。
「駄目!お願い!」
「放っとけるかよ!」
六花は言葉を失う。
尚哉はそのまま走り出した。
呆然とした六花は尚哉の姿が見えなくなると、我に返って尚哉を追いかけようとする。
しかし、周囲の教師と生徒たちに押さえられ、その場に座りこんでしまう。
◇
「おい!」
「戻れ!」
「危険だ!」
教師達の声が飛ぶ。
だが。
尚哉は止まらない。
灰原も止まらない。
二人とも校舎へ向かう。
周囲の景色が流れる。
煙の臭いが鼻をついた。
胸が苦しい。
心臓がうるさい。
それでも走る。
◇
校舎の入口。
すでに生徒達が避難していた。
教師達が誘導している。
非常ベルが鳴り響く。
混乱。
怒号。
悲鳴。
文化祭の空気はどこにもなかった。
◇
一方その頃。
灰原は二階へ辿り着いていた。
煙がかなり充満している。
視界は悪い。
熱気も強い。
それでも足を止めなかった。
譲渡会の教室へ向かう。
そして。
扉を開けた。
◇
「……!」
いた。
三匹ともいた。
茶トラ。
キジトラ。
ハチワレ。
ケージの中で怯えている。
「大丈夫だ」
灰原はすぐに駆け寄った。
「今出してやるから」
震える手でケージを開ける。
子猫達を一つのキャリーケースに移す。
小さな体が震えていた。
◇
「よし」
灰原は立ち上がる。
そのまま教室を出た。
だが。
「……っ!」
思わず顔をしかめる。
煙がさらに濃くなっていた。
さっきまで見えていた廊下が見えない。
来た方向も分からないレベルだ。
視界が白く霞む。
「くそ……」
思った以上にまずかった。
◇
「灰原!」
その時だった。
聞き慣れた声がした。
煙の向こうから尚哉が現れる。
「橘!?」
「大丈夫か!」
尚哉は息を切らしていた。
「猫は!?」
「いる!」
灰原がキャリーを見せる。
尚哉は安堵した。
「よかった……!」
◇
「すぐ出るぞ!」
尚哉が言う。
「全然見えねえ、出口行けるか?」
「たぶん!」
「たぶんかよ!」
「今はそれでいいだろ!」
灰原が怒鳴る。
尚哉も怒鳴り返す。
「いいわけあるか!」
それでも。
二人とも少しだけ安心していた。
猫は見つかった。
あとは出るだけだ。
そう思っていた。
◇
その瞬間だった。
嫌な音が響いた。
ミシッ。
と。
何かが軋む音。
二人が同時に顔を上げる。
「……やば」
灰原が呟いた。
◇
次の瞬間。
天井の一部が崩れ落ちた。
「うおっ!」
「っ!」
轟音。
粉塵。
炎。
衝撃。
二人は反射的に飛び退く。
◇
「橘!」
「灰原!」
視界が塞がれる。
煙が一気に広がった。
何も見えない。
互いの姿も見えない。
「大丈夫か!?」
尚哉が叫ぶ。
「なんとか!」
灰原の声が聞こえる。
だが遠い。
◇
崩れた天井が廊下を塞いでいた。
完全に。
二人の間を遮るように。
「くそ!」
尚哉が叫ぶ。
回り込もうとする。
だが炎が邪魔をする。
「無理だ!」
灰原の声が響く。
「灰原!」
「何だ!」
「お前南側の出口に向かえ!来た道だから多分距離も近い気がする!」
「ふざけんな!」
「南側から猫連れて出ろ!」
「だから一緒に!」
「この状況じゃもう無理だ!俺は反対側の出口に向かうから!」
選択の余地のない判断だった。
◇
炎が広がっていく。
もう時間がない。
灰原も分かっていた。
尚哉も分かっていた。
ここで立ち止まれば。
本当に終わる。
◇
「先に出ろ!」
灰原が叫ぶ。
「後で合流だ!」
「絶対だぞ!」
「当たり前だ!」
そう返ってくる。
◇
尚哉は別の通路へ走り出す。
灰原も猫を抱えたまま来た道を戻る。
互いの姿はもう見えない。
煙だけが広がっていく。
橘尚哉は追いかけている。




