第3話 灰原陸は本当のことを言わない。
灰原陸は本当のことを言わない。
例のノートに書かれていた一文を見つめながら、尚哉は眉をひそめた。
「どういう事だよ……」
思わず独り言が漏れる。
小春の財布はその通りになった。
忘れるという具体的な出来事だったからだ。
だが今回は違う。
本当のことを言わない。
それは予言なのか。
それとも。
ただの悪口なのか。
尚哉はベッドへ倒れ込んだ。
天井を見上げる。
考えても答えは出なかった。
そもそも。
灰原が何かを隠しているようには見えない。
あいつはいつだって騒がしいし。
いつだって笑っている。
少なくとも尚哉にはそう見えていた。
◇
翌朝。
「おはよーっす!」
教室のドアが勢いよく開いた。
灰原陸だった。
相変わらず無駄に元気である。
「朝からうるさいぞ」
尚哉が言う。
「挨拶は大事なんだぞ橘くん」
「そうだとしても声がでかすぎ」
「元気の良さは俺の長所だからな」
「自分で言うな」
灰原は満足そうに頷いた。
「よし」
「何がよしなんだよ」
いつものやり取り。
いつもの灰原。
あのノートに書かれていた言葉を思い出しながら、尚哉はそれとなく灰原を見る。
だが。
特に変わった様子はない。
むしろいつも以上に元気なくらいだった。
「おっはよ〜」
小春が教室へ入ってくる。
「おっ朝比奈。財布見つかってよかったな」
灰原が言う。
「ほんとだよ〜」
小春は自分の財布を取り出した。
「昨日から三回確認したもん」
「いやいや確認しすぎだろ」
「またなくしたら困るもん〜」
「今度から首にぶら下げとけば」
「それ全然可愛くない〜」
そんなくだらない会話に教室が少しだけ和む。
六花も笑っていた。
いつも通りだ。
本当に。
いつも通りだった。
◇
四時間目。
ホームルーム。
担任が教卓の前でプリントを配っていた。
「はい、後ろ回せー」
配られた紙を受け取り、尚哉は目を落とす。
進路希望調査票。
まだ一年生だというのに気が早い。
そう思った。
「一応な」
担任が言う。
「今すぐ決めろって話じゃない。ただ、将来何したいかくらいは考えとけ」
教室のあちこちから微妙な反応が返ってくる。
「え〜」
「まだ早くない?」
「そんなん分かんねぇよ」
そんな声が飛び交う。
尚哉も似たようなものだった。
やりたいこと。
なりたいもの。
正直よく分からない。
ふと隣を見る。
灰原が調査票を見つめていた。
珍しく黙っている。
「どうした」
尚哉が小声で聞く。
「ん?」
灰原が顔を上げる。
「いや別に」
そう言って笑った。
いつもの笑顔。
いつもの灰原。
――だったはずなのに。
一瞬だけ。
何かを隠したように見えた。
ほんの一瞬。
気のせいだと言われれば、それまでの時間だった。
だが。
尚哉の頭には。
あの一文が浮かんでいた。
【灰原陸は本当のことを言わない。】
◇
昼休み。
進路希望調査票は思った以上に話題になっていた。
「みんなさ、将来とか考えてるの?」
小春が牛乳を飲みながら聞く。
「わたし全然〜」
そう答えたのは本人だった。
「お前が聞くとは」
尚哉が言う。
「だって分かんないんだもん〜」
「それは同感」
六花も苦笑した。
「やりたいことなんて、そう簡単には見つからないよね」
「それな〜」
小春が大きく頷く。
その時だった。
「俺は決まってるぞ」
灰原が言った。
一瞬。
全員の視線が集まった。
「え?」
小春が目を丸くする。
「マジで?」
「マジ」
「何?」
「内緒」
即答だった。
「えぇ〜!」
小春が不満そうな声を上げる。
「そこまで言ったなら教えてよ〜」
「へへ。やだね」
「子供か」
尚哉が呆れる。
灰原は笑った。
「秘密って言われると気になるだろ?」
「それは気になるよ〜」
「だから秘密なんだよ」
満足そうだった。
六花も苦笑している。
だが。
尚哉だけは少し違った。
あのノートの一文。
【灰原陸は本当のことを言わない。】
その言葉が頭をよぎる。
別に嘘ではない。
ただ。
本当のことも言っていない。
それだけだ。
それだけのはずなのに。
妙に引っかかる。
◇
放課後。
昇降口で靴を履き替えていると。
「橘」
灰原が声をかけてきた。
「一緒に帰るか」
「別にいいけど」
二人は並んで歩き始める。
夕方の住宅街。
少しずつ伸び始めた影。
吹き抜ける風。
「そういや」
尚哉が口を開く。
「昼のあれ」
「あれ?」
「将来決まってるってやつ」
「ああ」
灰原は笑った。
「気になる?」
「別に」
「嘘つけ」
「お前が言うな」
灰原は声を上げて笑った。
それから少しだけ空を見上げる。
「まあ、そのうちな」
「そのうち?」
「そのうち話す」
そう言った。
いつもの調子だった。
いつもの笑顔だった。
だけど。
なぜだろう。
少しだけ。
寂しそうに見えた。
「……ふーん」
尚哉はそれ以上聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
灰原もそれ以上は話さなかった。
◇
夜になった。
尚哉は机の引き出しから例の黒いノートを取り出した。
灰原のことを考えていた。
本当のことを言わない。
確かに。
今日の灰原は少しだけ変だった。
でも。
結局何も分からなかった。
尚哉はノートを開く。
最後のページには変わらず。
【灰原陸は本当のことを言わない。】
その文字があった。
そして。
その下に。
新しい文字が浮かび上がっている。
【一色玲奈は泣いている。】
「……一色?」
聞いたことのない名前だった。
尚哉は眉をひそめる。
このノートは答えをくれない。
ただ。
事実だけが勝手に増えていく。




