第132話 白鷺六花は話している。
夕日は少しずつ傾いていた。
教室の中は赤く染まっている。
机の上には例のノート。
六花の涙で滲んだページ。
【白鷺六花は嘘をついている。】
尚哉はその文字を見つめていた。
さっきまでとは違う目だった。
疑うためではなく。
確かめるための目。
「じゃあ」
尚哉が言う。
「このノートは、お前と関係があるんだな」
六花は小さく頷いた。
「うん」
「書いたのは」
尚哉は少しだけ迷う。
「お前なのか」
六花はすぐには答えなかった。
ノートを見る。
黒い表紙。
何度も見た文字。
何度も書き足した言葉。
「……ほとんどは」
小さく答えた。
「ほとんど?」
尚哉が聞き返す。
六花は頷く。
「最初の一行以外は、たぶん私」
尚哉の視線がページへ落ちる。
【白鷺六花は嘘をついている。】
「これは?」
「分からない」
六花は首を振った。
「私じゃない」
「じゃあ、誰が」
「分からない」
同じ答えしか出せなかった。
本当に分からなかった。
何百回繰り返しても。
何度このノートを見ても。
最初の一行の事だけは、ずっと分からないままだった。
◇
尚哉は黙った。
未来日記。
そう呼んでいた。
未来を予言するように出来事が書かれているから。
けれど今、目の前にいる六花は言った。
ほとんどは私が書いた、と。
「未来を知ってたから書けたってことか」
「うん」
六花は頷く。
「でも、最初は違った」
「最初?」
「一番最初に戻った時は、私も何も知らなかった」
尚哉は何も言わない。
続きを待っている。
六花はゆっくりと息を吸った。
「気付いたら四月一日に戻ってたの」
その言葉を口にすると、胸の奥が少し痛んだ。
何度も思い出した朝。
見慣れた天井。
日付。
誰も覚えていない世界。
「最初は夢だと思った」
「……だろうな」
「でも違った。病院にも連絡した。検査のことも、ドナーのことも聞いた」
尚哉の表情がわずかに動いた。
意味は分かっていないはずだ。
けれど、六花の声に含まれたものには気付いたのだと思う。
「何も残ってなかった」
六花は続ける。
「私が検査を受けた記録も、治療の話も、何も」
「それで」
「うん」
六花は指先を握る。
「私だけが覚えてるんだって、分かった」
◇
教室の外から遠くの声が聞こえる。
運動部の掛け声。
靴音。
チャイムの余韻。
世界は普通に続いている。
それが少し不思議だった。
六花は話している。
今まで誰にも話せなかったことを。
尚哉の前で。
少しずつ。
「それから」
六花はノートを見る。
「このノートを見つけた」
「どこで」
「この教室」
尚哉が少しだけ眉を動かす。
「俺と同じか」
「うん」
「放課後?」
「うん。誰もいない教室で」
尚哉は小さく息を吐いた。
「俺が見つけた時と同じだな」
六花は頷く。
「開いたら、最初のページにこれがあった」
指先が少し震える。
【白鷺六花は嘘をついている。】
「意味が分からなかった」
「だろうな」
「怖かった。でも、捨てられなかった」
「なんで」
「分からない」
六花は少しだけ考えた。
「でも、今の私と関係がある気がしたから」
◇
尚哉はページをめくった。
見慣れた文字が並んでいる。
【朝比奈小春は財布を忘れる。】
【灰原陸は本当のことを言わない。】
【一色玲奈は泣いている。】
【白鷺六花は大丈夫と言う。】
何度も読んだ文字。
意味を考え続けた文字。
けれど今は、少し違って見えた。
「これも」
尚哉が言う。
「お前が書いたのか」
「うん」
「予言として?」
六花は首を振った。
「最初は違う」
「違う?」
「ただの記録だった」
六花は静かに言う。
「起きたこと」
「見たこと」
「感じたこと」
「忘れたくなかったこと」
言葉にしていくうちに、自分でも少しずつ整理されていく。
「一行目の書き方に、なんとなく合わせただけ」
「白鷺六花は嘘をついている、に?」
「うん」
尚哉はもう一度ページを見る。
短い文。
誰かの名前。
何かの出来事。
それだけなのに。
今は、その奥に六花の時間が見える気がした。
◇
「なんで、書いたんだ」
尚哉が聞く。
責める声ではなかった。
ただ知りたい声だった。
六花は少しだけ俯く。
「…忘れないため」
「忘れる?」
「また戻るかもしれないと思ったから」
四月一日。
何度も。
何度も。
同じ日へ戻る。
そのたびに、世界は何もなかった顔をする。
誰も覚えていない。
何も残っていない。
だから。
「せめて、私だけでも覚えておかなきゃって思った」
尚哉は黙っていた。
「最初はそれだけだった」
六花は苦笑する。
「未来日記なんて、そんな大げさなものじゃなかった」
記録。
確認。
祈り。
言い訳。
後悔。
だんだん混ざっていった。
けれど最初は本当に。
ただ忘れないためだった。
◇
尚哉はページをめくる。
【一色玲奈は屋上へ行く。】
【一色玲奈は空を見ている。】
【一色玲奈は何も言わない。】
【一色玲奈は落ちる。】
【一色玲奈の未来は変わる。】
そこまで読んで、尚哉の手が止まった。
「これ」
六花もその文字を見る。
その時のことを覚えている。
怖かった。
必死だった。
変えられたと思った。
「変えられたこともあったんだな」
「うん」
六花は頷く。
「全部じゃないけど」
「全部じゃない?」
「変えられる未来もあった」
六花は小さく息を吐く。
「でも」
その先は、言わなくても分かる気がした。
尚哉はページから目を離し、六花を見る。
「俺の未来は変えられなかった」
六花の肩が小さく揺れた。
答えはなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
◇
尚哉はノートを閉じなかった。
まだ机の上に開いたまま。
けれど、目は文字ではなく六花を見ていた。
「白鷺」
「……うん」
「お前」
尚哉は言葉を探す。
「ずっと、こうやって書いてたのか」
六花は頷く。
「毎回じゃないよ」
「毎回じゃない?」
「拾わなかったこともある」
尚哉は少し驚いたように見る。
「どうして」
「…疲れてたからね」
「私が拾わなければ何か変わるかもって思った事もあった」
六花は少しだけ笑った。
でも、それは笑顔ではなかった。
「書いたって変わらないって思ったこともあった」
「見たくなかったこともある」
「もう、何も残したくなかったこともある」
言葉にすると、胸が少し苦しくなる。
でも、今は止まらなかった。
「それでも結局、また拾ってた」
「なんで」
「……分からない」
六花はノートを見る。
「でも、何も残らないのが怖かったのかもしれない」
◇
尚哉はその言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
何も残らない。
誰も覚えていない。
世界は何度でも四月一日に戻る。
その中で、六花だけが記憶を持っている。
このノートは予言書ではなかった。
少なくとも、六花にとっては違った。
誰にも届かなかった時間を。
どうにか残そうとしたもの。
それに近いのだと思った。
「……そっか」
尚哉は静かに言った。
「お前、ずっと話してたんだな」
六花が顔を上げる。
「このノートに」
尚哉は開かれたページを見る。
「誰にも話せない代わりに」
六花は何も言えなかった。
その通りだったから。
自分でも気付いていなかったけれど。
たぶん、そうだった。
◇
夕日がさらに深くなる。
教室の影が長く伸びていた。
六花は未来日記を見る。
それから尚哉を見る。
「変だよね、わたし」
「何が」
「こんなものに書いて」
「変じゃないだろ」
尚哉はすぐに答えた。
「誰にも言えなかったんだろ」
「……」
「だったら、書くくらいするさ」
当たり前みたいに言われた。
それが少しだけ痛くて。
すごく優しかった。
六花は目を伏せる。
「……うん」
小さく頷く。
「私、話したかったのかもしれない」
初めて。
そんなふうに思った。
誰かに。
ずっと。
助けてほしかったのかもしれない。
白鷺六花は話している。




