第129話 白鷺六花は失っている。
翌朝、六花は少しだけ早く家を出た。
目的はひとつ、今日は尚哉に話しかける。
昨日決めたことだった。
もう迷わない。
もう後悔したくない。
頼まれ事も、今日は断っていく。
校門をくぐりながら、小さく息を吐く。
大丈夫。
普通に話しかければいい。
ただそれだけだ。
◇
教室へ入る。
尚哉は既に来ていた。
窓際の席。
その姿を見ただけで、胸の奥が少しだけ温かくなる。
今日も。
ちゃんと。
そこにいる。
六花は自分の席へ向かった。
◇
休み時間。
昨日よりは少しだけ自然に声を掛けられた。
「おはよう」
「あれ、白鷺」
尚哉が振り向く。
「おはよう」
それだけの会話だった。
本当なら。
もっと沢山話したかった。
映画のことも。
夏祭りのことも。
病院のことも。
全部。
でも今は言えない。
言ったところで伝わらない。
だから。
今はこれで良かった。
◇
昼休み。
六花は小春たちと昼食を食べていた。
何気ない会話。
何気ない笑い声。
それなのに。
時々視線が尚哉の方へ向いてしまう。
尚哉は変わらない。
誰かが困っていれば気付く。
話しかけられればちゃんと答える。
自然に周囲を気遣う。
病気になる前も。
病院の中でも。
きっと変わらなかった人。
六花は少しだけ笑う。
やっぱり彼が好きだと思った。
改めて。
今の尚哉を見ても。
やっぱり六花が恋した尚哉だった。
◇
放課後。
今日は少しだけ話せた。
それだけなのに嬉しかった。
昨日より前へ進めた気がする。
六花は帰り支度をしながら、そんなことを考えていた。
その時だった。
「人身事故だって」
「マジ?」
「○○線止まってるらしいぞ」
教室のあちこちから声が聞こえる。
六花が使う路線だった。
スマホを確認する。
確かに運転見合わせの通知が出ていた。
「困ったな……」
スマホで路線を調べる。
別の路線で帰れそうだ。
…少し遠回りになるけれど。
◇
夕方。
普段は利用しない駅。
ホームには大勢の人がいた。
運転見合わせの影響なのか、いつも以上に混雑している。
六花は人の流れに押されるように歩く。
その時。
「あれ?」
聞き覚えのある声がした。
振り向く。
尚哉だった。
「橘くん」
「白鷺もこっち使うのか?」
「今日は電車止まってて」
「俺はいつもここからなんだ」
二人は少しだけ笑った。
偶然だった。
でも。
少し嬉しかった。
◇
列車の到着アナウンスが流れる。
ホームの人々が前へ詰める。
ざわざわと空気が動く。
六花は何気なく尚哉を見た。
尚哉も何か話そうとしていた。
その瞬間だった。
後ろから強い衝撃が来た。
「えっ――」
誰かが走ってきた。
避けきれない。
身体が前へ押し出される。
足が浮く。
視界が傾く。
ホームの端。
線路。
迫る地面。
落ちる。
そう思った。
◇
「白鷺!」
尚哉の声が聞こえた。
次の瞬間。
強い力で身体を押される。
六花の身体がホームの内側へ投げ出される。
床へ転がる。
痛みが走る。
何が起きたのか分からない。
ただ。
目の前にいたはずの尚哉がいなかった。
◇
悲鳴が響く。
ホーム全体が騒然となる。
六花は顔を上げた。
そして。
見てしまった。
「……あ」
線路の上。
転落した人影。
ホームへ滑り込んでくる列車。
ブレーキ音。
誰かの叫び声。
現実感がなかった。
理解が追い付かなかった。
ただ一つだけ。
分かったことがある。
◇
「……尚哉くん」
声にならない。
呼吸が止まる。
心臓が痛い。
身体が震える。
「尚哉くん!」
叫ぶ。
立ち上がって駆け出そうとする。
誰かに止められる。
振り払う。
もう一度叫ぶ。
「尚哉くん!!」
届かない。
何も。
届かない。
◇
昨日。
生きていた。
今日も笑っていた。
少しだけ話もした。
明日はもっと話そうと思っていた。
それなのに。
どうして。
なんで。
また。
◇
視界が涙で滲む。
世界が崩れていく。
音が遠ざかる。
意識が沈む。
そして。
次の瞬間。
◇
目を開ける。
……見慣れた天井だった。
白鷺六花は失っている。




