第128話 白鷺六花は書き始める。
翌朝。
教室へ入った瞬間、騒がしい声が聞こえた。
「ない!」
朝比奈小春だった。
「絶対ここに入れたのに!」
鞄をひっくり返しながら慌てている。
周囲の生徒たちも巻き込まれていた。
「何なくしたの?」
「財布!」
「また?」
「またじゃないよ!」
小春が叫ぶ。
六花は思わず小さく笑った。
昨日までの重苦しい気持ちが少しだけ和らぐ。
それにしても賑やかだ。
小春らしい。
結局、財布は靴箱の中から見つかった。
「なんでこんな所にあるの!?」
「知らねぇよ」
「普通に置き忘れた説が濃厚だな」
灰原が呆れたように言う。
「ぐぬぬ…」
教室に笑いが広がった。
六花もつられて笑った。
そんな何気ない朝だった。
◇
授業が始まる。
けれど六花の意識は何度も別の場所へ向かった。
橘尚哉。
窓際の席。
何度も視線を送る。
尚哉はいつも通りだった。
友達と話して。
授業中はちゃんとノートを取っているのか少し怪しい。
時々眠そうな顔をする。
昨日と変わらない。
いや。
病気が発覚した後の姿より、ずっと元気だった。
それだけで少し安心する。
話しかけようと思った。
何度も。
休み時間のたびに。
でも駄目だった。
向こうは何も覚えていない。
六花だけが覚えている。
夏祭りも。
映画も。
手を繋いだことも。
好きだと言われたことも。
全部。
だから距離感が分からなくなってしまう。
今の尚哉は恋人じゃない。
ただのクラスメイトだ。
六花にとってその状況は、とても寂しいものだった。
◇
気付けば放課後になっていた。
「じゃあなー」
「また明日ー」
クラスメイトたちが帰っていく。
尚哉も友人たちと話しながら教室を出ていった。
六花はその背中を見送る。
結局。
今日も何も話せなかった。
「明日は……」
小さく呟く。
明日はちゃんと話しかけよう。
そう思いながら立ち上がる。
◇
教室には誰もいなかった。
夕日が差し込んでいる。
赤く染まった教室。
静かな放課後。
六花は帰ろうとして足を止めた。
「あれ……?」
机の上に黒いノートが置かれていた。
見覚えはない。
誰かの忘れ物だろうか。
手に取る。
表紙には何も書かれていない。
なんとなく開く。
そして。
最初のページを見た瞬間、六花は固まった。
『白鷺六花は嘘をついている。』
「……え?」
自分の名前だった。
何故。
誰が書いたのかも分からない。
なぜこんなことが書かれているのかも分からない。
気味が悪かった。
でも。
捨ててはいけない気がした。
今の自分の状況と、何か関係があるような気がした。
六花はノートを閉じる。
そして鞄の中へ入れた。
◇
夜。
部屋の机にノートを置く。
何度見ても意味は分からない。
『白鷺六花は嘘をついている。』
そんなつもりはない。
少なくとも自分では。
それでも。
その言葉が妙に胸に引っかかった。
六花はノートを開く。
白いページが続いている。
何も書かれていない。
少しだけ迷った。
そして。
ペンを手に取る。
理由は自分でも分からなかった。
ただ。
今日という日を忘れたくないような気分。
だから。
一行だけ書く。
『朝比奈小春は財布を忘れる。』
それだけ。
六花はペンを置いた。
何の意味もない記録だった。
ただ今日起きたことを書いただけ。
六花は軽くため息をついて、
ノートを閉じた。
◇
ベッドへ横になる。
天井を見上げる。
今日も何が起きているのかは分からなかった。
どうして四月一日に戻ったのか。
どうして自分だけ覚えているのか。
どうしてあのノートがあったのか。
結局何一つ分からない。
でも。
尚哉は生きていた。
だから。
明日はちゃんと話しかけよう。
そう思いながら目を閉じる。
白鷺六花は書き始める。




