第127話 白鷺六花は理解できない。
朝のホームルームが終わっても、六花は落ち着かなかった。
黒板の文字も。
先生の話も。
ほとんど頭に入ってこない。
何度も視線が向かう。
教室の斜め前の橘尚哉。
友達と話している。
笑っている。
生きている。
それは確かだった。
でも。
それ以外の全てが分からなかった。
◇
休み時間。
六花は何度も尚哉を見た。
話しかけようとしてやめる。
また話しかけようとして、
……やめる。
病院でのことを覚えているなら。
きっと何か反応するはずだ。
でも。
今朝の反応を見る限り、そんな様子は一切なかった。
まるで。
何も起きていないみたいだった。
◇
昼休み。
意を決して席を立つ。
尚哉の方へ向かう。
胸が苦しい。
緊張なのか。
恐怖なのか。
自分でもよく分からなかった。
「橘くん」
声を掛ける。
尚哉が顔を上げた。
「あれ、白鷺」
普通だった。
あまりにも普通だった。
「どうした?」
「えっと……」
言葉に詰まる。
何を聞けばいいのか分からない。
病院のこと?
手術のこと?
昨日のこと?
全部おかしい。
そもそも六花を「白鷺」と呼んでいる。
昨日というより、これまでが存在しなかったような雰囲気。
「何?」
尚哉が不思議そうに首を傾げる。
「……ううん」
六花は首を振った。
「なんでもない」
「変なの」
尚哉はそう言って笑った。
その笑顔を見て。
六花は理解した。
覚えていない。
尚哉は何も覚えていない。
夏祭りも。
映画も。
付き合ったことも。
病院も。
最後の言葉も。
全部。
なかったことになっている。
◇
放課後。
六花は一人で病院へ電話を掛けた。
どうしても確認したかった。
もし夢ではないのなら。
何か痕跡が残っているはずだった。
受付へ名前を伝える。
検査のことを聞く。
ドナー適合のことを聞く。
しばらくして返ってきた答えは。
『そのような記録はありません』
だった。
「……え?」
『白鷺さんがドナー検査を受けた記録も確認できません』
六花は言葉を失う。
『他に何かございますか?』
「……いえ」
通話が切れる。
スマホを握る手が震えていた。
◇
記録がない。
検査もない。
手術もない。
病院には何も残っていなかった。
なのに自分だけは覚えている。
病院の景色も。
手術前の恐怖も。
尚哉を救いたいと思った気持ちも。
全部覚えている。
◇
帰り道。
夕日が街を赤く染めていた。
六花は一人で歩きながら考える。
結局。
何が起きたのかは分からない。
どうして四月一日に戻ったのかも分からない。
どうして自分だけ覚えているのかも分からない。
でも。
ひとつだけ確かなことがあった。
尚哉が生きている。
少なくとも今は。
元気でそこにいる。
笑っている。
◇
それだけで十分じゃないか。
ふと、そんな考えが浮かんだ。
少なくとも昨日までは。
もう二度と会えないと思っていた。
悲しくて苦しくて沢山泣いた。
それなのに。
今は会える。
話せる。
隣にいられる。
理由なんて分からなくても。
もし。
もう一度やり直せるのなら。
今度こそ。
もっとたくさん話そう。
もっと一緒にいよう。
もっと。
ちゃんと伝えよう。
◇
六花は空を見上げた。
春の風が吹いている。
桜が揺れていた。
不思議と。
少しだけ前を向ける気がした。
白鷺六花は理解できない。




