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第125話 白鷺六花は優しい嘘をついている。

 夜になっても、尚哉は眠れなかった。


 眠るという行為を身体が受け付けなかった。


 机の前に座ったまま、スマホの画面だけを見ていた。


 六花とのトーク画面。


『おい』


『六花』


『返事しろ』


 どれにも既読はついていない。


 何度見ても同じだった。


 変わらない。


 何も。


 名前はそこにある。


 メッセージも残っている。


 写真も残っている。


 なのに、六花だけがいない。


     ◇


 部屋の扉が小さく叩かれた。


「尚哉」


 母親の声だった。


「……何」


「少し、いい?」


 返事をする前に、扉が開いた。


 母親は封筒を持っていた。


 白い封筒。


 そこには病院の名前が入っている。


 尚哉はそれを見た瞬間、胸の奥が嫌な音を立てた気がした。


「病院から預かっていたの」


「……病院?」


「白鷺さんから」


 その名前を聞いた瞬間、呼吸が止まった。


 母親は少しだけ躊躇ってから、封筒を差し出す。


「あなたに、って」


 尚哉はしばらく動けなかった。


 手を伸ばすだけなのに、体が重い。


 それでも封筒を受け取る。


 指先が震えていた。


     ◇


 封筒の中には、小さなメモリーカードと紙が入っていた。


 紙には短く書かれていた。


 『橘尚哉くんへ』


 それだけで、視界が揺れた。


「……なんだよ」


 声が掠れる。


 尚哉はメモリーカードを手に取る。


 何なのかは分かる。


 見ればいい。


 見なければいけない。


 でも。


 見たら何かが本当に終わってしまう気がした。


 母親は何も言わなかった。


 少しだけ尚哉の様子を伺って、静かに部屋を出ていく。


 尚哉は一人になった。


     ◇


 動画を開く。


 画面が暗くなる。


 数秒の沈黙。


 そして。


 六花が映った。


 自分の部屋なのだろう。


 後ろには見覚えのある写真立てがあった。


 青い花と白黒のハチワレ猫。


 尚哉が贈ったガラス細工。


 六花は画面の向こうで少しだけ笑っていた。


 少しぎこちない笑顔だった。


『尚哉くんへ』


 声が聞こえた。


 尚哉の心臓が大きく跳ねる。


『これを見てるってことは、私はたぶん、今そっちにいません』


 六花は少しだけ困ったように笑った。


『変な言い方だよね』


『でも、あんまり重くしたくないので』


『できるだけ普通に話します』


 普通じゃないだろ。


 尚哉はそう思った。


『まずは……ごめんね』


 六花は画面の中で少しだけ目を伏せた。


『急にいなくなって、ごめん』


『たくさん心配かけて、ごめん』


『ちゃんと話せなくて、ごめんね』


 尚哉は画面を見つめる。


 手が震えていた。


『でも、尚哉くんに謝りたいことより、伝えたいことの方が多いです』


 六花は顔を上げた。


 そして笑った。


『本当にありがとう』


『私と出会ってくれてありがとう』


『一緒に帰ってくれてありがとう』


『映画に行ってくれてありがとう』


『夏祭りに行ってくれてありがとう』


『名前で呼んでくれてありがとう』


 言葉が一つずつ落ちてくる。


 尚哉の胸に。


 ひどく静かに。


『楽しかったよ』


『本当に、すごく楽しかった』


『尚哉くんといる時間が、私は大好きでした』


 六花の声は穏やかだった。


 その穏やかさが、尚哉には耐えられなかった。


『だからね』


『あんまり、自分を責めないでください』


 尚哉の眉が動く。


『尚哉くんは悪くないです』


『何も悪くない』


『だから、どうか生きてください』


 息が詰まる。


『学校へ行って』


『映画も見て』


『冬になったらイルミネーションも見て』


『卒業して』


『たくさん笑って』


『ちゃんと幸せになってください』


 六花は笑っていた。


 最後まで。


 平気で笑えているはずがない。


 それでも、微笑みを絶やさない。


『私のことは……』


 そこで少しだけ言葉が止まる。


 六花は一度だけ瞬きをした。


『……忘れてもいいから』


 尚哉の中で、何かが軋んだ。


『でも、たまに思い出してくれたら嬉しいかな』


『……わがままだね』


 六花は少しだけ笑った。


『最後に…一つだけ』


 少しだけ間が空く。


 六花は画面の向こうで、まっすぐこちらを見ていた。


『私ね』


『尚哉くんのことが、大好きでした』


『今までも』


『たぶん、これからもずっと、ずっと』


 声がほんの少しだけ震えた。


 でも、六花は笑ったままだった。


『だから、生きてね』


『お願いです』


『尚哉くんは、生きてください』


 その言葉を最後に、六花は小さく頭を下げた。


『ありがとう』


『さよなら』


 動画はそこで終わった。


     ◇


 画面が暗くなる。


 部屋の中に音がなくなる。


 尚哉は動けなかった。


 何秒経ったのか分からない。


 何分経ったのかも分からない。


 ただ、真っ黒な画面だけを見ていた。


 そして。


「……ふざけんな」


 小さな声が漏れた。


「ふざけんなよ…」


 喉の奥が震える。


「何が…忘れてもいい…だよ」


 声が大きくなる。


「幸せになってください…なんてさ」


 スマホを握る手に力が入る。


「お前がいないのに」


 涙が落ちた。


 一滴。


 また一滴。


「どうやって…どうやって幸せになれって言うんだよ」


 歯を食いしばる。


 それでも涙は止まらない。


「勝手に決めんじゃねえよ」


「俺、まだ何も言ってねぇだろ」


「ありがとうも」


「好きだってことも」


「何もかも」


 声が崩れる。


 呼吸が乱れる。


「なんで!」


 尚哉は机に額を押し付ける。


「なんでお前なんだよ!」


「なんで……俺じゃないんだよ!」


「お前がいなくなるくらいなら、俺はあのままで構わなかったのに!」


 その言葉が口から出た瞬間、自分でも分かった。


 本当はずっと、そう思っていた。


 六花がいない世界なんて絶対認めない。


 六花が死んで、自分だけが生きている未来なんて受け入れられない。


 そんなものは未来じゃない。


 そんなものは、いらない。


     ◇


 尚哉は机の引き出しを開けた。


 黒い表紙のノートを取り出す。


 何のノートだったのかは覚えていない。


 授業用だったかもしれない。


 何も書かれていない白いページ。


 そこにペンを置く。


 手が震えていた。


 涙で視界が滲んでいた。


 書かなければいけない気がした。


 六花の言葉を、そのまま終わらせたくなかった。


 あんな優しい嘘で。


 あんな無理した笑顔で。


 全部を閉じられてたまるかと思った。


「嘘だろ……」


 尚哉は呟く。


「お前、嘘ついてるだろ……」


 忘れていいわけがない。


 幸せになれるわけがない。


 笑えるわけがない。


 大丈夫なわけがない。


 六花だって。


 本当は。


 本当は、生きていたかったはずだ。


 尚哉は震える手で、一行を書いた。


 『白鷺六花は嘘をついている』


 その瞬間。


 ノートに落ちた涙が、文字を滲ませた。


 ページが、ほんのわずかに震えた気がした。


 部屋の時計の音が、遠くなる。


 尚哉はそれに気付かない。


 ただ、滲んだ文字を見つめていた。


 ページの余白にもう一文字だけ何かを書き足そうとして。


 その瞬間。


 世界が、音もなく歪み、軋んだ。


 ……


 白鷺六花は嘘をついている。

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