第122話 橘尚哉は助かった。
目を開けると、白い天井が見えた。
ぼんやりしている。
体が重い。
頭の奥に霧がかかったみたいだった。
ここがどこなのか、すぐには分からなかった。
「尚哉」
声が聞こえる。
母親の声だった。
顔を向けようとするが、うまく動かない。
「……母さん」
掠れた声が出た。
父親も隣にいた。
見慣れないほど、安心した顔をしている。
「よかった……」
母親が呟く。
尚哉は少しだけ瞬きをした。
何がよかったのか。
まだ理解かできていない。
◇
少しして、医師が来た。
説明は短かった。
治療は終わったこと。
現時点では大きな異常は見られないこと。
しばらく経過を見る必要があること。
回復が期待できること。
いくつかの言葉だけが、ぼんやりと頭に残った。
「……命が助かった、ってことですか」
尚哉が聞く。
医師は少しだけ慎重な表情をした。
「まだ断言はできません。ですが、治療は成功しています」
成功。
その言葉だけが、はっきり聞こえた。
尚哉は天井を見る。
助かった。
たぶん。
自分はまだ生きている。
そう思った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなった。
◇
数日後。
病室の窓から、薄い光が差し込んでいた。
手術の影響で、体はまだ重い。
歩くのも少し疲れる。
なんなら手術前のほうが正直元気だった。
大きな手術、治療をしたのでそれは仕方のない事だ。
それでも、最初に目を覚ました時よりはずっとましだった。
スマホを見る。
メッセージがたくさん届いていた。
小春。
『無事なの橘くん!?』
灰原。
『退院したら飯な』
玲奈。
『無事終わって本当によかったです』
思わず笑顔になる。
相変わらずだった。
小春は騒がしい。
灰原は雑。
玲奈は丁寧すぎる。
それぞれの顔が浮かぶ。
教室。
昼休み。
帰り道。
全部、まだ遠くない場所にある気がした。
◇
六花からのメッセージは、まだなかった。
尚哉は少しだけ画面を見つめる。
でも、すぐにスマホを置いた。
きっと忙しいのだろう。
それか、心配しすぎて何を書けばいいのか分からないのかもしれない。
六花はそういうところがある。
だから、退院したらこっちから連絡すればいい。
そう思った。
◇
午後。
看護師に付き添われて、病室の廊下を少しだけ歩いた。
一歩。
また一歩。
大した距離ではない。
それでも、尚哉は妙に嬉しかった。
歩ける。
息ができる。
外の光が見える。
たったそれだけのことが、前よりずっと大きく感じる。
◇
窓の外には空があった。
雲がゆっくり流れている。
尚哉はふと、夏祭りの夜を思い出した。
花火。
繋いだ手。
名前を呼んだこと。
来年も来ようと約束したこと。
映画。
イルミネーション。
卒業。
欲しいと思った未来が、少しずつ戻ってくる気がした。
まだ何も終わっていない。
まだ全部できるかもしれない。
◇
病室へ戻る。
ベッドに腰を下ろすと、それだけで少し息が上がった。
でも嫌ではなかった。
疲れたということは、体が動いているということだった。
生きているということだった。
尚哉はスマホを手に取る。
六花とのトーク画面を開く。
少し迷ってから、文字を打つ。
『起きた』
送信する。
続けて、もう一通。
『たぶん大丈夫』
送信。
既読はつかない。
尚哉は画面をしばらく見つめて、それからスマホを伏せた。
◇
夜。
消灯前の病室は静かだった。
母親は一度帰り、父親も明日また来ると言っていた。
一人になると、少しだけ実感が追いついてくる。
自分は助かった。
まだ確定ではない。
まだ不安はある。
でも、治療は成功した。
その事実だけで、少しだけ前を向ける気がした。
◇
尚哉は天井を見上げる。
会わなければならない人がいると思った。
名前も知らない。
顔も知らない。
どんな人なのかも知らない。
それでも。
その人がいなければ、今の自分はいなかったかもしれない。
卒業も。
映画も。
イルミネーションも。
来年の夏祭りも。
六花といる未来も。
全部、そこへ繋がっている。
◇
「会えたら、ちゃんと言わないとな」
小さく呟く。
ありがとう。
それくらいしか思いつかない。
けれど今は、それをちゃんと伝えたかった。
尚哉は目を閉じる。
胸の奥が、少しだけ温かいもので満たされるような感覚を覚えた。
橘尚哉は助かった。




