第121話 白鷺六花は覚えていたい。
週末の駅前は人で賑わっていた。
休日の昼下がり。
買い物袋を持つ人。
友達同士で歩く学生。
家族連れ。
何も特別ではない景色。
けれど六花には、その全部が少しだけ眩しく見えた。
「六花」
声がした。
振り返ると、尚哉が立っていた。
少しだけ息を切らしている。
「ごめん。待ったか?」
「ううん」
六花は首を振る。
「今来たところ」
「それ、待ってた人が言うやつだろ」
「そうかな」
「そうだろ」
尚哉は少しだけ笑った。
六花も笑う。
ちゃんと笑えた。
六花は少し安心する。
油断したら、泣いてしまいそうだから。
◇
映画館へ向かう。
チケットを買って。
飲み物を選んで。
ポップコーンをどうするかで少しだけ揉めた。
「食べきれるのか?」
「食べきれるよ」
「前もそう言って余らせただろ」
「あれはサイズが大きかっただけ」
「今回も同じサイズだぞ」
「じゃあ尚哉くんも食べて」
「最初からそう言え」
そんな会話をしながら、二人はシアターへ入った。
照明が落ちる。
予告編が流れる。
隣に尚哉がいる。
それだけで、六花は胸の奥が少しだけ温かくなった。
映画の内容は、ちゃんと覚えているようで、どこか曖昧だった。
面白かった。
笑える場面もあった。
少し泣きそうになる場面もあった。
でも六花が一番覚えていたのは、隣で尚哉が小さく笑った音だった。
◇
映画が終わる。
外へ出ると、まだ空は明るかった。
「面白かったな」
尚哉が言う。
「うん」
「どこが?」
「そこ聞く?」
「感想だろ」
「えっと……最後のところ」
「ああ、分かる」
「尚哉くんは?」
「途中の猫出てくるとこ」
「そこ?」
「猫は重要だろ」
六花は笑った。
尚哉も少しだけ笑う。
その顔を見て、六花は思う。
覚えておこう。
今日の笑い方。
今日の声。
今日の横顔。
全部。
◇
その後、二人は少しだけ街を歩いた。
本屋に寄った。
雑貨屋にも寄った。
前にガラス細工を見た店の前を通った時、六花は少しだけ足を止めた。
「どうした?」
「ううん」
六花は首を振る。
「何でもない」
机の上に飾ってある青い花とハチワレ猫を思い出した。
何より大切な宝物。
誕生日に尚哉がくれたもの。
ちゃんと大事にしている。
…ずっと大事にしたかった。
「また何か欲しいのか?」
尚哉が聞く。
「違うよ」
「本当か?」
「本当」
六花は笑う。
「もう、もらってるから」
尚哉は少しだけ照れたように視線を逸らした。
「ならいいけど」
◇
カフェへ入った。
六花は甘い飲み物を選んだ。
尚哉は迷った末に、少し苦そうなものを選んだ。
「それ、美味しい?」
「普通」
「普通って」
「悪くはない」
「素直じゃないなぁ」
「うるさい」
六花はまた笑った。
笑ってばかりだった。
今日だけは。
今日だけは、ずっと笑っていようと思っていた。
「冬、どうする?」
尚哉が言う。
「イルミネーション?」
「ああ」
「まだ早いって言ったのに」
「でも決めといた方が楽だろ」
「じゃあ、綺麗なところ」
「ざっくりしてるな」
「尚哉くんが探してくれるんでしょ?」
「丸投げかよ」
「うん」
「否定しろ」
二人で笑った。
それから、次に見たい映画の話をした。
文化祭の話をした。
卒業したらどうなるのかも少しだけ話した。
どれも未来の話だった。
当たり前みたいに続くはずの話だった。
六花はその一つひとつに頷いた。
全部、ちゃんと聞いていた。
全部、忘れたくなかった。
◇
夕方。
駅へ向かう帰り道。
空は赤く染まり始めていた。
人通りは多い。
けれど、六花には少しだけ静かに感じた。
「今日は楽しかったな」
尚哉が言う。
「うん」
六花は頷いた。
「楽しかった」
「また行くか」
「うん」
言葉が喉の奥で少しだけ詰まる。
でも笑った。
「また行こうね」
尚哉は何でもないことみたいに答える。
「当たり前だろ」
その言葉が、胸の奥に深く残った。
当たり前。
少し前まで、本当にそう思っていた。
また映画へ行くこと。
また一緒に歩くこと。
また明日と言えること。
全部。
当たり前だった。
◇
別れ道。
「じゃあまた明日」
尚哉が言う。
「うん」
六花は笑った。
「尚哉くん」
「何?」
「…大好き」
「…なんだよ急に」
「なんでもない」
尚哉は急に言われて照れ臭そうに頭をかく。
「じゃあまた明日」
「また明日ね」
また明日が言えた。
尚哉が手を上げて歩いていく。
その背中を見送る。
見えなくなるまで。
ずっと。
◇
家へ帰る。
部屋へ入る。
鞄を置く。
鏡の前に立つ。
そこには、いつも通りの自分が映っていた。
少し疲れた顔。
でも、笑っている顔。
六花は鏡の中の自分を見つめた。
今日一日。
ちゃんと笑えた。
尚哉の前で。
小さな嘘を重ねながら。
全部覚えていよう。
最後まで笑っていよう。
「……」
鏡から目を逸らす。
その瞬間、笑顔が静かに消えた。
白鷺六花は覚えていたい。




