第116話 白鷺六花は嘘をつく。
病院の説明室は静かだった。
机。
椅子。
資料。
白い壁。
医師が説明を始める。
六花は資料へ視線を落とした。
そこには難しい言葉が並んでいた。
治療方法。
適合検査。
提供者への負担。
合併症。
リスク。
死亡率。
わかりやすく医師は説明してくれるが、理解はできてもやはり現実味がなかった。
◇
「白鷺さん」
医師が言う。
「はい」
「まだ最終決定ではありません」
六花は頷く。
「まずは適合検査です」
「はい」
「結果次第では治療自体が成立しない可能性もあります」
「はい」
「ですから、今の段階で無理に決断する必要はありません」
優しい声だった。
きっと本当にそう思っているのだろう。
でも。
六花の答えは変わらなかった。
「受けます」
医師が少しだけ黙る。
「白鷺さん」
「受けます」
六花はもう一度言った。
「お願いします」
◇
書類へ署名をする。
自分の名前を書く。
たったそれだけのことなのに、指先が震えた。
書き終わった名前を見つめる。
白鷺六花。
自分の名前。
見慣れた文字なのに、初めて見たような不思議な感覚を覚えた。
◇
病院を出る。
空は青かった。
車が走る。
人が歩く。
信号が変わる。
世界はいつも通りだった。
六花だけが違う世界を見ていた。
◇
翌日。
教室。
「おはよう」
六花が言う。
「おう」
尚哉が返す。
いつも通り。
本当にいつも通りだった。
「昨日何してた?」
何気ない声。
何気ない質問。
六花は一瞬だけ言葉に詰まる。
「ちょっと用事」
そう答えた。
尚哉は特に気にした様子もない。
「ふーん」
それだけだった。
◇
嘘だった。
◇
昨日。
六花は病院にいた。
適合検査の説明を受けていた。
尚哉を助けるかもしれない話をしていた。
でも言えない。
言えるはずがなかった。
◇
昼休み。
「六花ちゃん最近疲れてない?」
小春が聞く。
「そう?」
「なんか元気ない気がする」
「気のせいだよ」
六花は笑った。
「全然元気」
小春は少しだけ不満そうな顔をする。
「ならいいけど」
◇
嘘だった。
◇
元気なわけがない。
夜は眠れない。
考えない日はない。
不安が消えた日もない。
それでも笑う。
笑わなければいけないから。
◇
放課後。
玲奈と廊下ですれ違う。
「白鷺さん」
「ん?」
「何か悩み事ですか?」
六花は驚いた。
玲奈は人の変化によく気付く。
小春みたいに騒がない。
灰原みたいに茶化さない。
ただ静かに見ている。
「どうして?」
「少しだけ、そんな気がしたので」
六花は微笑む。
「大丈夫」
「そうですか」
玲奈はそれ以上聞かなかった。
◇
また嘘だった。
◇
帰り道。
二人で歩く。
夕方の空。
少し冷たくなった風。
「映画楽しみだな」
尚哉が言う。
「うん」
「何見る?」
「まだ決めてない」
「決めとけよ」
「尚哉くんもね」
少しだけ笑う。
自然に笑えた。
それが逆に苦しかった。
◇
「六花」
「ん?」
「ほんとに大丈夫か?」
突然だった。
六花は足を止めそうになる。
「最近ちょっと変だぞ」
尚哉は前を向いたまま言う。
「無理してないか」
六花は少しだけ俯いた。
そして顔を上げる。
「してないよ」
笑う。
できるだけ自然に。
「心配しすぎ」
尚哉は少しだけ納得していない顔をした。
でも、それ以上は言わなかった。
◇
別れ道。
「じゃあまた明日」
「うん」
手を振る。
尚哉も振り返す。
そして歩いていく。
六花はその背中を見送った。
◇
ごめんね。
心の中でだけ呟く。
声にはしない。
できない。
◇
夜。
自室。
机の引き出しを開く。
中には病院の封筒が入っていた。
検査資料。
同意書の控え。
説明書類。
全部そこにある。
六花は静かに引き出しを閉めた。
◇
その時だった。
「六花?」
母の声。
ドアの向こうから聞こえる。
「何?」
「今度の学校の書類?」
六花は一瞬だけ固まった。
そして答える。
「うん」
「提出忘れないようにね」
「大丈夫」
◇
嘘だった。
◇
ドアの向こうで母の足音が遠ざかる。
六花はその場に立ち尽くした。
尚哉にも。
小春にも。
玲奈にも。
家族にも。
本当のことを言えない。
◇
気付けば。
今日だけで何回嘘をついただろう。
◇
六花は静かに目を閉じる。
そして小さく息を吐いた。
誰にも聞こえない声で呟く。
「ごめんね」
◇
白鷺六花は嘘をつく。




