第114話 白鷺六花は決められない。
朝になった。
目が覚めても、何も変わっていなかった。
昨日聞いた言葉も。
昨日流した涙も。
昨日の苦しさも。
全部そのまま残っている。
六花は天井を見上げたまま、小さく息を吐いた。
ほとんど眠れた気がしなかった。
◇
学校へ着く。
教室の扉を開ける。
「おはよー!」
小春が元気に手を振る。
「おはよう」
六花も笑顔を作る。
自然にできたかは分からない。
でも小春は気付かない振りをする。
「六花ちゃん夜更かしはダメよぉ」
「ちょっと目が腫れてるもん」
小春はいつも通りにしている。
「そうかな」
「そうだよ」
「昨日ちょっと夜更かししちゃって」
嘘だった。
ほとんど眠れていない。
でも本当のことは言えなかった。
◇
尚哉はまだ来ていなかった。
少しだけ安心して。
少しだけ寂しかった。
自分でも意味が分からない。
会えば苦しくなる。
でも会いたい。
矛盾ばかりだった。
◇
「よう」
聞き慣れた声。
振り向く。
尚哉だった。
いつも通りの顔。
少し眠そうな顔。
鞄を机へ置いて席へ座る。
何も変わっていない。
本当に何も変わっていない。
だから。
胸が痛かった。
◇
一時間目。
授業が始まる。
六花はノートを開くが、集中できない。
視界の端に尚哉がいる。
それだけで意識が持っていかれる。
ペンが止まる。
先生の声が遠い。
気付けばまた考えている。
尚哉のことを。
未来のことを。
あの日の説明室のことを。
◇
助けたい。
その気持ちは変わらない。
最初から変わっていない。
でも。
生きたい。
その気持ちも消えない。
どちらも本当だった。
◇
昼休み。
小春と灰原が騒いでいた。
「橘くんまた寝てる」
「起きてる」
「絶対寝てる」
「起きてる」
「寝てる」
「起きてる」
玲奈が小さく笑う。
灰原も吹き出す。
尚哉は面倒そうな顔をしていた。
教室は笑い声で満ちていた。
六花も少しだけ笑った。
その光景にも寂しさを感じてしまう。
◇
もし。
自分がいなくなったら。
この教室はどうなるんだろう。
小春は笑うだろうか。
灰原は騒ぐだろうか。
玲奈は本を読むだろうか。
尚哉は。
ちゃんと笑えるだろうか。
そんなことが脳裏をよぎってしまう。
考えたくないのに。
六花は苦しい胸の内を、誰にも打ち明けられない。
◇
放課後。
玲奈と少しだけ話した。
「新刊買いました?」
「まだ」
「面白かったですよ」
「ほんと?」
「はい」
何でもない会話。
本当に何でもない。
でも。
その何でもなさが愛おしかった。
こんな時間も。
あとで思い出になるのだろうか。
そんなことを考えてしまう。
◇
帰り道。
二人で歩く。
夕方の空。
少しだけ涼しい風。
尚哉が空を見上げた。
「やっと暑さ落ち着いてきたな」
「うん」
「今年の夏長かった」
「そうだね」
会話は続く。
でも六花は上手く返せない。
頭の中が別のことでいっぱいだった。
◇
「冬になったらさ」
尚哉が言う。
「うん」
「イルミネーション見に行くか」
六花は息を止めた。
今年。
来年。
その言葉全部が胸へ刺さる。
未来。
約束。
その先。
◇
「六花?」
尚哉が不思議そうに見る。
「あ、ごめん」
慌てて笑う。
「聞いてたか?」
「聞いてたよ」
「じゃあ返事」
「行きたいです」
嘘じゃなかった。
本当に行きたかった。
だから余計に苦しかった。
◇
別れ道。
「じゃあまた明日」
「うん」
いつもの言葉。
当たり前の言葉。
でも。
今の六花には何より大切だった。
◇
夜。
部屋。
一人。
静かだった。
机の上には写真立て。
ガラス細工。
スマホ。
全部いつもと同じ場所にある。
六花はベッドへ腰掛けた。
◇
考える。
何度も考える。
答えは出ない。
もし選ばなかったら。
尚哉は死ぬ。
もし選んだら。
自分がいなくなる。
どちらも嫌だった。
どちらも選びたくなかった。
◇
助けたい。
生きたい。
助けたい。
生きたい。
何度繰り返しても同じだった。
◇
スマホが震える。
画面を見る。
尚哉だった。
『明日映画でも見る?』
たったそれだけのメッセージ。
何気ない言葉。
未来を前提にした言葉。
六花は画面を見つめる。
涙が滲む。
◇
映画。
行きたい。
その先も。
もっとたくさん。
全部。
全部欲しかった。
◇
返事を打つ。
『うん』
短い文字。
送信。
すぐに既読がつく。
◇
六花はスマホを胸へ抱きしめた。
助けたい。
生きたい。
どちらも捨てられない。
どちらも選べない。
だから。
まだ決められなかった。
白鷺六花は決められない。




