第113話 白鷺六花は生きたい。
音の無い夜。
部屋の電気だけが静かに灯っている。
机。
本棚。
ベッド。
見慣れた自分の部屋。
それなのに。
今の六花には全部が少し遠く見えた。
◇
ベッドへ腰掛ける。
制服のまま。
着替える気にもなれなかった。
夕飯を食べて。
お風呂へ入って。
母と少しだけ話して。
いつも通りのことをしなきゃいけないはずなのに。
病院から帰宅して、気付けばずっとこのままだった。
あの説明室。
医師の声。
差し出された資料。
そして。
『提供者の命に関わります』
その言葉。
◇
六花は顔を伏せる。
考えたくない。
でも考えてしまう。
尚哉を助けられるかもしれない。
その代わり。
自分がいなくなるかもしれない。
その事実だけが頭の中を回り続ける。
◇
机の上へ視線を向ける。
ガラス細工があった。
青い花と白黒のハチワレ猫。
誕生日にもらった宝物。
隣には写真立て。
夏祭りの日の写真。
花火の光。
写真の中の二人は幸せそうだった。
◇
六花は写真を手に取る。
指先が少し震えていた。
思い出す。
文化祭。
映画。
誕生日。
夏祭り。
帰り道。
名前を呼び合ったこと。
未来の話をしたこと。
全部。
全部。
まだ少し前のことなのに。
ずっと昔みたいに感じる。
◇
「……」
写真を胸に抱く。
そして。
初めて、その言葉を考える。
自分が。
死ぬ。
ということを。
◇
「……やだ」
小さな声だった。
誰にも聞こえない。
だから止められなかった。
「嫌だ……」
「なんでなの……」
唇が震える。
涙が滲む。
尚哉を助けたい。
本当に助けたい。
でも。
だからって。
自分が消えてしまうなんて。
◇
三海のことを思い出す。
海。
強い日差し。
冷たい水。
泣き叫ぶ声。
あの日。
六花は残された。
生き残った。
だからずっと思っていた。
生きているなら頑張らなきゃいけないと。
誰かの役に立たなきゃいけないと。
お姉ちゃんの分まで。
ちゃんと生きなきゃいけないと。
そう思ってきた。
でも。
◇
「生きていたいよ……」
言葉が漏れる。
それは誰にも言ったことがない本音だった。
「私だって……」
涙が落ちる。
ぽたり、と写真へ落ちそうになって慌てて拭う。
「尚哉くん……」
◇
来年の夏祭り。
もっと可愛い浴衣を着たい。
映画も観たい。
卒業もしたい。
冬になったらマフラーも買いたい。
クリスマスも。
正月も。
春も。
全部欲しかった。
未来が欲しかった。
尚哉と一緒にいる未来が。
◇
「一緒にいたい……」
声が震える。
「もっと……」
涙が止まらない。
「もっと一緒にいたい……」
病気なんて嫌だった。
こんな選択も嫌だった。
誰も傷付かない未来が欲しかった。
尚哉も。
自分も。
普通に笑っていられる未来が欲しかった。
これってわがままなの?
◇
スマホが震えた。
六花は肩を震わせる。
画面を見る。
尚哉からだった。
『何してる』
短いメッセージ。
いつも通りの文章。
それだけなのに。
涙がまた溢れた。
◇
画面が滲む。
文字が見えない。
六花は何度も目を擦る。
返事を打とうとする。
でも。
指が動かせない。
今、何を書けばいいのか分からない。
病院で聞いたことなんて言えない。
助けられるかもしれないとも言えない。
怖いとも言えない。
生きたいとも言えない。
◇
何分経ったのか分からない。
ようやく。
短い文字だけを打つ。
『何でもないよ』
送信。
嘘だった。
本当は六花の胸の中はいろんな気持ちでぐちゃぐちゃになっていた。
矛盾してる。
きっとこんなつらい時、普段なら尚哉に頼ると思う。
真っ先に話を聞いてもらうと思う。
でも。
尚哉には絶対に言えない。
それが苦しくてたまらない。
◇
少しして返信が来る。
『そっか』
たった三文字。
それだけだった。
それだけなのに。
六花はスマホを胸へ抱きしめる。
まるで尚哉そのものを抱きしめるみたいに。
◇
涙が止まらない。
助けたい。
でも。
生きたい。
どちらも本当だった。
どちらも嘘じゃなかった。
どちらか一つだけ選べと言われても今の六花には選べなかった。
だから苦しくて…苦しくてたまらない。
◇
部屋には誰もいない。
聞いてくれる人もいない。
だから。
六花は本音を口にする。
「生きたい……」
消え入りそうな声で呟く。
綺麗事じゃない。
尚哉にも。
小春にも。
家族にも。
誰にも聞こえない。
その言葉は嘘じゃなかった。
白鷺六花は生きたい。




