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第112話 白鷺六花は知らされる。

 数日後。


 六花はまた病院にいた。


 尚哉の検査に付き添う。


 最近は、病院へ来ることにも少しだけ慣れてしまった気がする。


 慣れたくなんてなかった。


 けれど。


 消毒液の匂いも。


 白い廊下も。


 待合室の椅子も。


 前ほど違和感はなくなっていた。


 それが少し嫌だった。


     ◇


 尚哉は診察室へ呼ばれていく。


 六花は待合室に残る。


 膝の上で手を重ねる。


 昨日、聞いてしまった言葉を思い出す。


 適合者が見つかれば可能性はある。


 助かる可能性はある。


 その言葉だけで、少しだけ息がしやすくなった。


 未来が完全に消えたわけではない。


 そう思えるだけで、救われた気がした。


     ◇


 しばらくして、診察室の扉が開いた。


 尚哉ではなかった。


 出てきたのは、昨日声を聞いた医師だった。


「あの、白鷺さん」


「はい」


 名前を呼ばれて、六花は立ち上がる。


 医師は少しだけ迷うような顔をした。


「少し、お時間よろしいですか」


 その言い方に、胸がざわついた。


 でも六花は頷くしかなかった。


     ◇


 案内されたのは、小さな説明室だった。


 診察室よりも狭い。


 机と椅子。


 資料の入ったファイル。


 窓のない部屋。


 医師は六花の向かいに座る。


「昨日、お話を聞かれていたかもしれませんが」


 六花は息を止める。


 やっぱり。


 気付かれていたのだ。


「すみません」


 六花は小さく頭を下げた。


「たまたま聞こえてしまって」


「いえ。こちらの配慮不足でもあります」


 医師はそう言って、少しだけ資料へ視線を落とした。


「橘さんの病気について、現在いくつかの治療可能性を調べています」


「はい」


「その中に、特殊な血液成分を用いる治療があります」


 昨日聞いた言葉だった。


 六花の心臓が少し強く鳴る。


「成功例は少ないのですが、存在します」


「それなら……」


 言いかけて、六花は口を閉じる。


 期待しすぎるのが怖かった。


 けれど、声は勝手に震えていた。


「尚哉くんは、助かるんですか」


 医師はすぐには答えなかった。


 その沈黙が怖かった。


「患者が回復する可能性はあります」


 やがて医師は言った。


 六花は胸に手を当てる。


 可能性。


 またその言葉だった。


 でも、今はそれだけでも欲しかった。


 ほんの少しでもいい。


 尚哉が生きられる可能性があるなら。


     ◇


「ただし」


 医師の声が少しだけ低くなる。


「この治療には、適合する提供者が必要です」


「ドナー、ですよね」


「はい」


 六花は頷く。


 昨日も聞いた。


 適合条件が厳しいことも。


 見つかる可能性が低いことも。


 それでも。


 見つかれば。


 尚哉は助かるかもしれない。


「適合者は、見つかりそうなんですか」


 六花は聞いた。


 自分の声が、少しだけ前のめりになっているのが分かった。


 医師は資料を見た。


 そして、言いにくそうに少し間を置く。


「身近な方で可能性のある方が、お一人いらっしゃいます」


 六花は目を見開いた。


「本当ですか!」


「はい」


 胸の奥に光が差した気がした。


 見つかった。


 助かるかもしれない。


 尚哉は生きられるかもしれない。


 来年も。


 再来年も。


 その先も。


 あの未来が、本当に戻ってくるかもしれない。


 そう思った。


     ◇


「白鷺さん」


 医師が言った。


「はい」


「その適合の可能性がある方は、あなたです」


 一瞬。


 意味が分からなかった。


「……え?」


 自分の名前を呼ばれたことだけは分かった。


 でも、言葉の意味が頭に入ってこない。


「私、ですか」


「はい」


「私が……?」


「現時点の検査結果では、適合する可能性があります」


 六花は何も言えなかった。


 胸の奥で、何かが大きく揺れる。


 私。


 私が。


 尚哉くんを助けられるかもしれない。


 そう思った瞬間、涙が出そうになった。


 嬉しかった。


 本当に。


 心の底から。


 だって、何もできなかった。


 待つことしかできなかった。


 願うことしかできなかった。


 それなのに。


 自分にも、できることがあるかもしれない。


 尚哉を助けられるかもしれない。


     ◇


「ただ」


 医師が続ける。


 その一言で、空気が変わった。


「この治療は、提供者への負担が非常に大きいものです」


 六花は顔を上げる。


「負担……?」


「通常の輸血とは違います。提供者の体内から必要な成分を取り出し、移植に用いる特殊な処置です」


「複数ドナーがいれば解決しますが、適合条件が厳しすぎて、現実的には不可能です」


「はい」


「つまり適合条件が厳しいだけでなく、提供者へのリスクも非常に高い」


 医師の声は慎重だった。


 六花はだんだん息がしにくくなる。


「リスクって……」


 聞きたくなかった。


 でも聞かなければいけない気がした。


 医師は少しだけ目を伏せる。


 そして言った。


「場合によっては、提供者の命に関わります」


 部屋の音が消えた。


 命に関わる。


 その言葉だけが、はっきり残る。


「……私が」


 六花の声は、自分のものではないみたいだった。


「死ぬかもしれない、ってことですか」


 医師はすぐに答えなかった。


 でもその沈黙が、答えだった。


 やがて、小さく頷く。


「申し上げにくいのですが、可能性はあります」


     ◇


 助かる。


 そう思った。


 尚哉は助かるかもしれない。


 未来が戻ってくるかもしれない。


 でも。


 その未来の中に、自分はいないかもしれない。


 理解が追いつかなかった。


 尚哉を助けられるかもしれない。


 自分が死ぬかもしれない。


 二つの言葉が、頭の中でぐるぐる回る。


 噛み合わない。


 同じ場所に置けない。


 それなのに。


 どちらも本当だった。


     ◇


 説明室を出た時。


 六花はどうやって廊下を歩いたのか覚えていなかった。


 尚哉はまだ別室にいるらしい。


 看護師がそう言っていた気がする。


 六花は病院の外へ出る。


 空は晴れていた。


 人も歩いている。


 車も走っている。


 世界は何も変わっていない。


 それなのに。


 六花だけが、現実から切り離された場所で立ち尽くしていた。


     ◇


 スマホを見る。


 ロック画面には、夏祭りの日の写真。


 淡い青の浴衣。


 少し照れた尚哉。


 花火の明かり。


 名前を呼び合った夜。


 来年も来ようと約束した夜。


 未来の話をした夜。


 全部がそこにあった。


 六花はスマホを握りしめる。


 尚哉を助けたい。


 それは本当だった。


 嘘じゃない。


 でも。


「……嫌だ」


 小さく声が漏れた。


 誰にも聞こえないくらいの声だった。


「一緒に、いたいよ……」


 言ってから、六花は唇を噛んだ。


 助けたい。


 でも。


 死にたくない。


 その二つが、胸の中で初めて同時に存在した。


 白鷺六花は知らされる。

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