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第110話 橘尚哉は未来を数えている。

 夜。


 机の上には、進路希望調査票が置かれていた。


 まだほとんど白紙のままだった。


 少し前なら、そのまま鞄に突っ込んで終わっていたと思う。


 期限ぎりぎりになって、適当に書いて出す。


 たぶんそれでよかった。


 けれど今は。


 その白紙が、妙に重く見えた。


     ◇


 尚哉は椅子へ座る。


 ペンを持つ。


 第一希望。


 第二希望。


 将来の進路。


 そんな欄が並んでいる。


「……分かんねぇよ」


 小さく呟く。


 大学。


 学部。


 仕事。


 大人になった自分。


 そんなもの、まだはっきり見えない。


 でも。


 見えないからどうでもいい、とは思えなかった。


 卒業したい。


 ふと、そう思った。


 自分でも少し驚く。


 少し前まで、卒業なんて勝手に来るものだと思っていた。


 来年も。


 再来年も。


 その先も。


 特別欲しいと思っていなかった。


 でも今は違った。


 欲しい。


 ちゃんとそこまで行きたい。


     ◇


 引き出しを開ける。


 別に何かを探していたわけではない。


 ただ、何となく。


 中にはいろいろなものが入っていた。


 映画の半券。


 文化祭のパンフレット。


 夏祭りで取った小さな猫のストラップ。


 いつの間にか、捨てられないものが増えていた。


 尚哉は映画の半券を手に取る。


 六花と初めて行った映画。


 終わった後、感想を話しながら歩いた。


 六花が楽しそうに笑っていた。


 次に文化祭のパンフレットを見る。


 準備で遅くまで残った日。


 仕事が終わった後、少しだけ一緒に回った日。


 何でもない時間だった。


 でも、ちゃんと覚えている。


 最後に猫のストラップを手に取る。


 夏祭り。


 手を繋いだ。


 名前で呼んだ。


 来年も来ようと約束した。


 あの夜の光が、まだ指先に残っているような気がした。


     ◇


 足りない。


 ふと、そう思った。


 まだ全然足りない。


 映画も、もっと行きたい。


 文化祭も、もう一回くらいちゃんと見たい。


 祭りにも行きたい。


 冬になったら、マフラーを買う話もした。


 クリスマスとか、正月とか。


 そういうものも、たぶん来るはずだった。


 当たり前みたいに。


 何も考えなくても。


 でも今は。


 その一つひとつを、数えてしまう。


 あと何回あるのか。


 あとどれだけ残っているのか。


 そんなことを考えてしまう。


     ◇


 スマホを見る。


 六花とのトーク画面を開く。


 最後のやり取りが残っていた。


『おかえり』


『ただいま』


 たったそれだけの文字。


 少し笑えたのは、六花らしいと思ったから。


 きっと心配していたのだろう。


 何もできないまま待っていたのだろう。


 それがよく分かる。


 だからこそ、胸が痛んだ。


 あいつには、笑っていてほしい。


 泣かせたくない。


 不安そうな顔も、もうあまり見たくない。


 だけど。


 たぶん自分がいる限り、六花は心配する。


 自分がいなくなれば、もっと悲しむ。


 考えるだけで嫌だった。


     ◇


 尚哉は進路希望調査票を見る。


 白紙。


 空欄。


 まだ何も書かれていない未来。


 前なら何とも思わなかった。


 でも今は、その空白が怖かった。


 何も書けないことが怖い。


 何も決められないことが怖い。


 未来が白紙のまま、そこで終わってしまうことが怖い。


「……」


 ペン先を紙に置く。


 けれど、やっぱり何も書けない。


 それでも。


 紙を閉じることはできなかった。


     ◇


 ベッドへ倒れ込む。


 天井を見る。


 部屋の電気が眩しい。


 目を閉じる。


 浮かぶのは、やっぱり六花だった。


 夏祭りの浴衣姿。


 名前を呼んだ時の顔。


 病院で泣きそうだった顔。


 帰り道で無理して笑っていた顔。


 どれも尚哉の大切な人だった。


 どれも失いたくなかった。


 そして気付く。


 自分が欲しい未来の中心には、いつも六花がいる。


 卒業したい。


 大学にも行ってみたい。


 映画も行きたい。


 祭りにも行きたい。


 でも。


 一番は。


 六花と一緒にいたい。


 それだけだった。


     ◇


 スマホが震える。


 画面を見る。


 六花からだった。


『おやすみ』


 短い文字。


 いつもなら何も考えずに返していた。


 でも今日は少しだけ考えた。


 心配させない言葉。


 安心させる言葉。


 何か気の利いた言葉。


 いくつか浮かんで、どれも違う気がした。


 結局、尚哉はいつも通りに返す。


『おやすみ』


 送信する。


 すぐに既読がついた。


 それだけで、まだ繋がっている気がした。


 尚哉はスマホを胸の上に置く。


 目を閉じる。


 明日。


 来週。


 来月。


 来年。


 その先。


 どれだけ残っているのかは分からない。


 でも。


 欲しいものは、はっきりしていた。


 数えきれないほどの未来が欲しかった。


 そしてその全部に、六花がいてほしかった。


 橘尚哉は未来を数えている。

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