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108/133

第108話 橘尚哉は学校へ来ている。

 朝。


 教室へ入る。


 窓の外では蝉が鳴いていた。


 まだ夏の終わり。


 暑さも残っている。


 いつも通りの朝だった。


「おはよー」


 小春が手を振る。


「おう」


「生きてる?」


「だから死んでねえ」


「それ聞くと逆に不安になるんだけど」


 灰原が笑う。


 小春も吹き出した。


「確かに」


「縁起でもないこと言うな」


「言い出したの橘くんじゃん」


 いつものやり取りだった。


 教室の空気も変わらない。


 みんな笑っている。


 尚哉も少しだけ笑った。


 でも。


 どこか遠くから見ている気分だった。


     ◇


 一時間目。


 授業は進んでいく。


 教師の声。


 ノートを取る音。


 ページをめくる音。


 尚哉もノートを開いている。


 けれど集中できなかった。


 頭に残るのは別の言葉だった。


 進行性。


 命に関わる可能性。


 医師の声。


 病院の匂い。


 白い天井。


 何度も思い出してしまう。


「橘」


 突然名前を呼ばれた。


「……はい」


「聞いてたか?」


「聞いてません」


 教室が少し笑う。


「正直すぎないかそれ」


 先生も苦笑した。


 尚哉は適当に頭を掻いた。


 いつもならこれで終わる。


 でも今日は違った。


 笑い声の中でふと思う。


 こういう時間も。


 なくなってしまうのだろうか。


     ◇


 昼休み。


 弁当を食べながら、小春が騒いでいた。


「進路希望まだ出してない人いるらしいよ」


「いるだろ普通に」


「橘くん?」


「違う」


「ほんと?」


「たぶん」


「たぶんって何」


 灰原が笑う。


 玲奈も小さく笑っていた。


 話題は進路になった。


 大学。


 就職。


 将来。


 誰が何を目指しているか。


 そんな話。


 少し前までなら興味がなかった。


 正直どうでもよかった。


 でも今日は違う。


 来年。


 という言葉が妙に引っ掛かる。


 再来年。


 卒業。


 大学。


 未来。


 そんな言葉ばかりが耳に残った。


     ◇


 ふと視線を上げる。


 六花がいた。


 小春の話を聞きながら笑っている。


 けれど。


 少しだけ無理をしているようにも見えた。


 たぶん気のせいじゃない。


 病院の日から。


 六花はよく笑うようになった。


 以前よりも。


 たぶん意識してそうしている。


 尚哉は気付いている。


 でも言わなかった。


 言えば余計に困らせる気がした。


     ◇


 放課後。


 二人で帰る。


 夕方の風が吹いていた。


 少しだけ涼しい。


「今日は平気そうだね」


 六花が言う。


「何が」


「体調」


「ああ」


 尚哉は頷く。


「今のところは」


 今のところ。


 その言葉を口にしてから少しだけ嫌な気分になる。


 前なら言わなかった言葉だった。


 六花も少しだけ黙った。


 たぶん同じことを思ったのだろう。


 会話が途切れる。


 そんな沈黙も、二人は平気だった。


 今、隣にいる。


 それだけで十分だった。


     ◇


 駅が近付く。


 別れ道も近い。


 人の流れ。


 信号の音。


 夕暮れの街。


 何も変わらない。


 本当に何も変わらない。


 それなのに。


 尚哉の中だけが変わってしまった気がした。


     ◇


「じゃあまた明日」


 六花が言う。


 いつもの言葉だった。


 何度も聞いた言葉だった。


「ああ」


 尚哉も頷く。


 六花は小さく手を振る。


 そして歩き出そうとする。


 尚哉は無意識に六花の手を掴む。


「…どうしたの?」


「…いや、なんでもない」


 尚哉はその手を静かに離す。


「…じゃあ、また明日」


 歩き出す六花。


 その背中を見送る。


 見えなくなるまで。


 ずっと。


     ◇


 明日。


 少し前まで何とも思わなかった言葉。


 当たり前に来ると思っていた時間。


 でも今は違う。


 明日が来ること。


 学校へ来ること。


 六花と話すこと。


 また帰ること。


 その全部が、少しだけ特別に思えた。


 尚哉は小さく息を吐く。


 そして駅へ向かって歩き出した。


 橘尚哉は学校へ来ている。

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