第108話 橘尚哉は学校へ来ている。
朝。
教室へ入る。
窓の外では蝉が鳴いていた。
まだ夏の終わり。
暑さも残っている。
いつも通りの朝だった。
「おはよー」
小春が手を振る。
「おう」
「生きてる?」
「だから死んでねえ」
「それ聞くと逆に不安になるんだけど」
灰原が笑う。
小春も吹き出した。
「確かに」
「縁起でもないこと言うな」
「言い出したの橘くんじゃん」
いつものやり取りだった。
教室の空気も変わらない。
みんな笑っている。
尚哉も少しだけ笑った。
でも。
どこか遠くから見ている気分だった。
◇
一時間目。
授業は進んでいく。
教師の声。
ノートを取る音。
ページをめくる音。
尚哉もノートを開いている。
けれど集中できなかった。
頭に残るのは別の言葉だった。
進行性。
命に関わる可能性。
医師の声。
病院の匂い。
白い天井。
何度も思い出してしまう。
「橘」
突然名前を呼ばれた。
「……はい」
「聞いてたか?」
「聞いてません」
教室が少し笑う。
「正直すぎないかそれ」
先生も苦笑した。
尚哉は適当に頭を掻いた。
いつもならこれで終わる。
でも今日は違った。
笑い声の中でふと思う。
こういう時間も。
なくなってしまうのだろうか。
◇
昼休み。
弁当を食べながら、小春が騒いでいた。
「進路希望まだ出してない人いるらしいよ」
「いるだろ普通に」
「橘くん?」
「違う」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんって何」
灰原が笑う。
玲奈も小さく笑っていた。
話題は進路になった。
大学。
就職。
将来。
誰が何を目指しているか。
そんな話。
少し前までなら興味がなかった。
正直どうでもよかった。
でも今日は違う。
来年。
という言葉が妙に引っ掛かる。
再来年。
卒業。
大学。
未来。
そんな言葉ばかりが耳に残った。
◇
ふと視線を上げる。
六花がいた。
小春の話を聞きながら笑っている。
けれど。
少しだけ無理をしているようにも見えた。
たぶん気のせいじゃない。
病院の日から。
六花はよく笑うようになった。
以前よりも。
たぶん意識してそうしている。
尚哉は気付いている。
でも言わなかった。
言えば余計に困らせる気がした。
◇
放課後。
二人で帰る。
夕方の風が吹いていた。
少しだけ涼しい。
「今日は平気そうだね」
六花が言う。
「何が」
「体調」
「ああ」
尚哉は頷く。
「今のところは」
今のところ。
その言葉を口にしてから少しだけ嫌な気分になる。
前なら言わなかった言葉だった。
六花も少しだけ黙った。
たぶん同じことを思ったのだろう。
会話が途切れる。
そんな沈黙も、二人は平気だった。
今、隣にいる。
それだけで十分だった。
◇
駅が近付く。
別れ道も近い。
人の流れ。
信号の音。
夕暮れの街。
何も変わらない。
本当に何も変わらない。
それなのに。
尚哉の中だけが変わってしまった気がした。
◇
「じゃあまた明日」
六花が言う。
いつもの言葉だった。
何度も聞いた言葉だった。
「ああ」
尚哉も頷く。
六花は小さく手を振る。
そして歩き出そうとする。
尚哉は無意識に六花の手を掴む。
「…どうしたの?」
「…いや、なんでもない」
尚哉はその手を静かに離す。
「…じゃあ、また明日」
歩き出す六花。
その背中を見送る。
見えなくなるまで。
ずっと。
◇
明日。
少し前まで何とも思わなかった言葉。
当たり前に来ると思っていた時間。
でも今は違う。
明日が来ること。
学校へ来ること。
六花と話すこと。
また帰ること。
その全部が、少しだけ特別に思えた。
尚哉は小さく息を吐く。
そして駅へ向かって歩き出した。
橘尚哉は学校へ来ている。




