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第107話 橘尚哉は怖がっている。

 静かな夜。


 部屋の電気はついている。


 机もある。


 ベッドもある。


 見慣れた自分の部屋だった。


 それなのに、どこか別の場所みたいに感じた。


 尚哉はベッドへ寝転がる。


 天井を見る。


 眠れなかった。


 医師の言葉が頭から離れない。


 進行性。


 経過観察。


 命に関わる可能性。


 言葉だけが何度も繰り返される。


 スマホを見る。


 時間はまだ十一時前だった。


 眠るには早い。


 けれど何かをする気にもなれない。


     ◇


 昔の自分なら。


 たぶん、ここまで気にしていなかった。


 少し面倒だな。


 少し嫌だな。


 そのくらいで終わっていた気がする。


 病気。


 将来。


 未来。


 そういうものに、元々あまり興味がなかった。


 大学も。


 仕事も。


 大人になった自分も。


 何となく来るものだと思っていたし、来なくても仕方ないと思っていた。


 だから。


 こんな風に考えていること自体が不思議だった。


     ◇


 スマホが目に入る。


 ロック画面。


 夏祭りの日の写真だった。


 浴衣姿の六花。


 少しだけ恥ずかしそうに笑っている。


 その隣に、自分がいる。


 尚哉は少しだけ目を細めた。


 あの日。


 花火を見た。


 手を繋いだ。


 名前で呼んだ。


 来年も一緒に来ようと約束した。


 未来の話もした。


 あの時は疑う余地もなく。


 普通に来年が来ると思っていた。


     ◇


「……」


 スマホを握る。


 ふと、病院での六花の顔を思い出した。


 あいつ泣きそうだった。


 いや。


 たぶん本当は泣いていた。


 必死に我慢していただけで。


 尚哉は小さく息を吐く。


 あんな顔をさせたかったわけじゃない。


 心配させたかったわけでもない。


 だから、


 ああいう顔は見たくなかった。


     ◇


 六花は優しい。


 誰かが困っていたら放っておけない。


 誰かが泣いていたら、自分も苦しくなる。


 そんな女の子だ。


 だから好きになった。


 もし。


 本当に。


 もしもの話だけど。


 自分がいなくなったら。


「……」


 そこで思考が止まる。


 続きが考えられなかった。


 考えたくなかった。


 六花は泣くと思う。


 きっと泣く。


 無理して笑うかもしれない。


 大丈夫だと言うかもしれない。


 でも。


 ひとりぼっちになったら絶対泣く。


 尚哉には分かる。


 六花を泣かせたくない。


 尚哉は驚くほどシンプルな気持ちに気がついた。


     ◇


「笑っていて…ほしいんだけどな」


 ぽつりと呟く。


 誰もいない部屋。


 だから自然に口から出た。


 六花の笑顔が見たい。


 映画を見て。


 くだらないことで笑って。


 祭りでかき氷を食べて。


 猫を見て喜んで。


 そういう顔をしていてほしかった。


 泣いている顔なんて見たくない。


 悲しそうな顔なんて見たくない。


 なのに。


 今は自分が、その原因になっている。


     ◇


 ベッドの上で目を閉じる。


 浮かぶのは未来だった。


 来年の文化祭。


 来年の夏祭り。


 映画。


 帰り道。


 また明日。


 名前を呼ぶ声。


 何でもない日常。


 全部。


 少し前まで当たり前だったもの。


 それが今は、ひどく遠く感じた。


 失いたくなかった。


 終わってほしくなかった。


 尚哉は呟く。


「ちくしょう」


     ◇


 その時。


 ようやく気付く。


 自分は。


 未来が欲しかったのだ。


 大学へ行きたいとか。


 立派な大人になりたいとか。


 そういうことじゃない。


 もっと単純だった。


 六花と一緒にいたい。


 約束を守りたい。


 また来年も笑いたい。


 それだけだった。


 それだけの未来が欲しかった。


     ◇


 スマホを開く。


 メッセージ画面。


 一番上にある名前。


『六花』


 少し前まで当たり前だった文字。


 尚哉はその名前を見つめる。


 何か送りたかった。


 でも何を書けばいいのか分からなかった。


 心配するな。


 大丈夫だ。


 そんな言葉は、自分自身が信じられなくなっていた。


     ◇


 窓の外では、遠くを走る電車の音が聞こえる。


 静かな夜だった。


 尚哉はスマホを胸の上に置く。


 そして天井を見上げた。


 怖かった。


 初めてだった。


 こんなにも未来を失うのが怖いと思ったのは。


 こんなにも明日が欲しいと思ったのは。


 こんなにも。


 生きたいと思ったのは。


「……死にたくねえな」


 誰にも聞こえない声だった。


 部屋の中へ消えていく。


 その言葉は嘘じゃなかった。


 橘尚哉は怖がっている。

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