第106話 白鷺六花は泣いている。
翌日。
六花はいつも通り学校へ来ていた。
教室へ入る。
小春がいて。
灰原がいて。
尚哉もいる。
昨日と同じだった。
何も変わっていないように見えた。
「おはよう」
六花が言う。
「おう」
尚哉が返す。
いつも通りのやり取り。
それだけなのに、六花は少しだけ安心した。
ちゃんといる。
ちゃんと話せる。
ちゃんと笑える。
それだけで嬉しかった。
でも。
その安心は長く続かなかった。
昨日の病院。
医師の言葉。
尚哉の声。
頭の中から消えてくれない。
◇
授業中。
尚哉はいつも通りだった。
ノートを取る。
少し眠そうにする。
先生に当てられて面倒そうな顔をする。
全部いつも通り。
だから余計に怖かった。
昨日までと何も変わらない。
なのに。
昨日までとは決定的に違う。
六花だけが、そのことを知ってしまった気がしていた。
◇
昼休み。
小春と灰原がいつも通り騒いでいる。
「橘くん病人なんだからちゃんと休みなよ」
「病人扱いするな」
「だって病院行ってたじゃん」
「行っただけだろ」
「行っただけじゃないでしょ」
小春が呆れる。
灰原も笑っている。
尚哉も少し笑った。
六花も笑う。
笑ったはずだった。
でも胸の奥だけは苦しいままだった。
みんな普通だった。
普通に笑っている。
普通に話している。
それが少しだけ遠く感じた。
◇
放課後。
帰り道。
二人で並んで歩く。
夕方の風が吹いていた。
「今日は病院ないの?」
六花が聞く。
「ない」
「そっか」
「来週また検査」
「うん」
会話が続かない。
前ならもっと自然に話せた気がする。
でも今は何を話しても、その先に病気がある気がした。
尚哉もきっと同じだったかもしれない。
途中から二人とも黙って歩いていた。
◇
家へ帰る。
「おかえり」
母の声。
「ただいま」
返事をする。
夕飯を食べる。
テレビを見る。
お風呂に入る。
いつも通りだった。
それなのに。
気が付くと考えてしまう。
尚哉のことを。
病院のことを。
未来のことを。
◇
夜。
自分の部屋。
机の上にはガラス細工が置かれていた。
青い花と白黒のハチワレ猫。
誕生日にもらったもの。
隣には夏祭りの日に撮った写真がある。
浴衣姿の自分。
少し照れたような尚哉。
どちらも笑っていた。
六花は椅子へ座る。
写真を見る。
ガラス細工を見る。
そして目を閉じた。
夏祭りの日を思い出す。
手を繋いだこと。
名前で呼んだこと。
来年も来ようと約束したこと。
未来の話をしたこと。
全部。
全部、本当に嬉しかった。
だから。
想像すると怖くて仕方ない。
◇
「嫌だ」
ぽつりと声が漏れた。
誰もいない部屋だった。
だから止められなかった。
「嫌だよ……」
視界が滲む。
涙が落ちる。
「なんで…」
「そんなのやだよ…」
嫌だった。
来年の夏祭りはもっと可愛い浴衣姿を見せたいと思ってたのに。
映画も沢山観に行きたいと思ってたのに。
また明日って毎日言いたかったのに。
まだ、大好きっていっぱい伝えられてないのに。
尚哉が、いなくなるなんて…
そんな未来は考えたくない。
嫌に決まっている。
六花は顔を伏せる。
声を出さないよう下唇を噛み締める。
嗚咽を押し殺すように、肩を震わす。
それでも涙は止まらない。
◇
しばらくして。
六花はスマホを手に取った。
メッセージ画面を開く。
最後のやり取り。
昨日。
病院の前。
『また明日』
短い文字。
何でもない言葉。
なのに今は、その一言が胸を締め付けた。
六花はスマホを胸へ抱きしめる。
まるで何かを失わないようにするみたいに。
「……尚哉くん」
小さく名前を呼ぶ。
返事はない。
当たり前だった。
それでも。
もう一度呼んでみる。
「ねえ尚哉くん……」
「尚哉くん…尚哉くん…大好きなのに……ずっと一緒にいたいのに……いやだよ…」
涙はとめどなく溢れてくる。
部屋には誰もいない。
聞いてくれる人もいない。
ひとりぼっちで六花は泣いていた。
未来が欲しかった。
尚哉と一緒にいる未来が欲しかった。
その願いだけを抱えながら。
白鷺六花は泣いている。




